隠津島神社
おきつしまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】隠津島神社 陸奥国 安積郡鎮座

   【現社名】隠津島神社
   【住所】福島県二本松市木幡治家49
       北緯37度37分20秒、東経140度34分38秒
   【祭神】瀛津嶋姫命 田心姫命 湍津姫命
   【例祭】4月29日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】神護景雲3年(769)安積大国造丈部直維足勧請
       大同年間(806-10)神佛習合となる
       前九年合戦で陸奥守源頼義・義家父子当社の山に立て籠つて祈願
       天正13年(1585)伊達政宗の兵火により全山炎上
       文明・元和年間、領主大内家社殿造営
       寛永19年丹羽光重五十石献納
       寛政12年4月造営
       明治元年辮財天宮を嚴島神社と改称郷社
       同35年隠津島神社に改称
       同40年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「木幡山辮財天宮」と称していた
   【公式HP】 隠津島神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・鐘楼・社務所

   【境内社】

木幡山の標高は666mで、社殿は標高約580mに位置して、集落より離れて鎮座している。
神護景雲3年(769年)に安積(阿尺)国造の丈部継足(はせつかべのつぐたり)が、3男である継宣(つぐのり)を社司(祭祀者)に定めて山中に勧請したのが創祀。


由緒

当神社は安積国造比祢命の後胤・丈部直継足の三男継宣が神護景雲3年(769 年)に隠津島神社を勧請した。後に式内社として延喜式神名帳に記載され、創立以来ここに1200余年にわたり歴世の武将・国主・地頭・藩主が上下挙って尊信し、祭祀を厚くし、又一般庶民に至るまで信仰をあつめた。その後大同年間(806 年)に平城天皇の勅願によって弁天堂が建てられ、神仏混淆の社となり、この時より隠津島神社弁財天と称れるようになった。後世には木幡の弁天様と呼ばれ庶民に親しまれるようになった。天正13年(1585年)伊達政宗の兵火により全山炎上、本社・末社悉く焼土となりしも藩主や庶民の信仰厚く、再建された。現存する本殿・拝殿は寛政元年(1789年)に二本松藩主丹羽長貴公の命により造営されたもので、実に十二年間の長き年月によって竣功された。明治に至っては初年の神仏分離令によって、別当治陸寺を廃し、厳島神社と称し明治35年神社名を復旧、隠津島神社と改称、明治40年県社に列した。後の第二次世界大戦後、神道指令によって、宗教法人隠津島神社として届出、社格(元県社)解消となったが、今日現在においても平和・招福・知恵・縁結びの神と広く深く信仰されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




隠津島神社

木幡山隠津島神社縁起
創立 神護景雲3年 奈良時代西暦770年
創立者 安積国比祢命及子丈部直継足
社号 最初 弁天宮 平城天皇勅願による
    次 厳島神社 明暦3年 1657
    次 隠津島神社 明治40年 県社昇格時
御祭神 隠津島姫命 又の名市杵島姫命
     田心姫命 湍津姫命
御神徳 縁結 福徳 和平
祭日 例大祭 4月25・6日
    幡祭 12月第一日曜日
    中祭 つちのと己巳日縁日
文化財 国指定 木幡の大杉 昭和18年
           全山保健保安林 昭和49年
     県指定 有形文化財 三重の塔 昭和30年
          名所及天然記念物 昭和30年
社殿創建は 寛政元年9月21日上棟(1789)
造営者 二本松太守丹羽左京太夫藤原朝臣長祥公、完成まで約12年間に亘る。

社頭掲示板



隠津島神社

東和町指定文化財
昭和51年12月29日指定
名称 木幡山門神社本殿
所有者 隠津島神社
説明 延喜式神社といわれる木幡山隠津島神社(木幡山弁天)の旧本殿である。二本松城主丹波長次公が貞享3年(1686年)に本宮再建に際して、旧社殿を移したものである。格天井には花鳥が描かれている。

社頭掲示板



木幡の幡祭り

毎年12月の第一日曜日に行われる木幡の幡祭りは、日本三大旗祭りの一つに数えられ、古い歴史と伝統をもったお祭りです。白旗を先達に赤、青、黄、緑と色とりどりの五反旗、百数十本が勢ぞろいし、法螺貝を吹き鳴らしながら木幡山の尾根を縦走します。
 この祭りは、平安中期天喜3年(1055)天皇の命を受けた源頼義と義家(八幡太郎)父子が奥州の豪族、安倍氏を征伐した戦いの中での出来事に由来しています。
 戦いに敗れた源頼義父子は、僅かな兵と木幡山に登り、戦勝祈願をしました。勝ちに乗じた安倍氏は翌朝一気に決着をつけようとしましたが、夜が明けると一驚。木幡山一帯は源氏の白旗で埋まり、安倍氏の軍勢の数倍にもなっていたのです。さすがの安倍氏も攻撃を断念し急いで引き返しました。源氏の白旗と見えたのは、実は木々に降り積もった白雪でした。
 以来、神仏の加護を信ずる里の人々は、源氏の白旗になぞり五反旗を手織り、木幡山を練り歩きながら源氏の武勲を称えたと言うことです。

社頭掲示板



三重の塔

県指定 建造物 木幡隠津島神社三重の塔
 昭和30年県の重要文化財に指定されたこの三重塔は、室町時代の文明4年(1472年)に建立されましたが、天正年間伊達政宗の兵火によって全山炎上した際、三重塔だけが残りました。延宝2年(1674年)二本松藩主丹羽重公により修復されましたが、明治35年の大暴風により第1層を残して倒壊し大修理したものが現存しています。
 福島県遺存塔は少なく、会津高田の「法用寺」・石城の「高倉寺」と当社の三基であります。

社頭掲示板



隠津島神社

当社は、神護景雲3年(769年)に宗像の三女神を御祭神として勧請された。
大同年間(906年)には、平城天皇の勅願によって弁天堂が建てられ、神仏混淆の社となり、後世には木幡の弁天様と呼ばれ庶民に親しまれるようになった。
天正13年(1585年)伊達正宗の兵火により全山炎上、本社・末社悉く焼土となりしも藩主や庶民の信仰厚く、再建された。
明治に至っては初年の神仏分離令によって、別当治陸寺を廃し、厳島神社と称し、明治35年神社名を復旧、隠津島神社と改称、明治40年県社に列した。
後の大東亜戦争終結後 神道指令によって宗教法人「隠津島神社」として届出、社格(元県社)解消となったが、今日現在においても平和・招福・知恵・縁結びの神と広く深く信仰されている。

公式HP



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