社殿は妙見山(標高778m〉の山頂にあり。
社殿より東南東約3Km麓の下守屋字前田に遙拝殿及び社務所がある。 |
由緒 飯森山(妙見山名は国有林)標高770m余の嶺に鎮座する飯豊和気神社は、五穀養蚕の守護の神であって神亀元甲子年9月勧請による延喜式内の古神である。日本紀略寛年9年9月7日「授陸奥国正六位上飯豊和気神社・・・」云々と記載神位授けられ文禄2年2月正一位の宣旨があり、また元文5年2月24日御幣勧請の宣命があった古社であって往古より神威霊験顕著でる為、各領主の崇敬篤かった。寛永13年3月野火のため本殿拝殿その他附属建物並びに延喜式宝物、社記、古文書等残らず消失し、神玉は飛ケ森という所の大樹へ飛遷した其節、神主大河原伊勢守が箱に封入権宮へ奉還した。これを稲霊の魂玉と申し伝わる。 その後、会津城主加藤式部少輔(義明公)が、本殿、拝殿並び籠殿等の附属建物を再建し、神領二百石、神子領二十石を賜る。そして、寛永20年二本松城主丹羽氏領となり、以来神領等は廃される。秋の祭典には、甘酒を醸し桶のまま神殿に供えて、参詣の人々に授け飲ませ、また御種貸神事として神前に供えた種籾を、信者へ貸し下げ翌年の祭典に新穀を返納させたが、何種の種が交じっていても雑穀とならず、主穀と同一となるという奇妙な稲霊の御種貸しと言う古代の神事があった。 明治維新までは、御山祭と称する祭事があって、領主の二本松城主丹羽家より郡奉行、代官等を参向させ、同領である安積郡内の神官全員が登山し、五穀豊穣、悪疫退散の祈祷を行った。また、早天の時は山下の各村から登山して、降雨祈願をした。 明治30年4月1日、再び野火の延焼により社殿其の他の建物を全焼したため明治43年4月に再々建した。併し、80年余りを過ぎ風雪水に浸される事甚大で昭和56年11月四度の建築にて現在に至っている。 なお、山頂には夜毎に樹立ちの中の社前に、幾千個の燈光が発現し、神秘であり「御竜燈」と呼ばれて遠近の人々にも知られている。また、現在も敬神者が遠くから参拝に登山し、特に戦中時まで春祭りには、千数百人の参詣人で大賑わいな山祭りであった。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |