氷上神社
ひかみじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】理訓許段神社 陸奥国 気仙郡鎮座
   【延喜式神名帳】登奈孝志神社 陸奥国 気仙郡鎮座
   【延喜式神名帳】衣太手神社 陸奥国 気仙郡鎮座

          (西の宮)理訓許多神社
          (中の宮)登奈孝志神社
          (東の宮)衣太手神社


   【現社名】氷上神社
   【住所】岩手県陸前高田市高田町西和野83
       北緯39度1分45秒、東経141度38分13秒
   【祭神】衣太手神 登奈孝志神 理訓許段神
       [西殿] 理訓許段神 [東殿] 衣太手神 [中殿] 登奈孝志神 を祀っている。

   【例祭】5月11日 春季例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仁寿2年(852)8月7日登奈孝志神に正五位下
       仁寿2年(852)8月7日理訓許段神・衣多手神に従五位下
       明徳年中に山上の社殿が火災
       応永2年(1395)9月9日再興
       明和2年(1765)7月14日氷上権現に「大権現」号
       寛政5年(1793)5月23日氷上三社に「大明神」号
       文化12年(1815)12月10日氷上三社大明神に正一位
       安永3年(1774)の後現在地に里宮建立
       明治5年郷社
       明治14年里宮の氷上神社本殿・幣殿・拝殿を新築
       昭和48年氷上山上に奥宮の新神殿造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来は、山麓に3社が別に存在していた
        中世山頂に集められた
        安永3年(1774)の後現在地に里宮建立

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「氷上権現」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       幣殿・拝殿

   【境内社】

氷上山上に、西宮・理訓許段神社、中宮・登奈孝志神社、東宮・衣太手神社の3社が鎮座していた。
古来は、山麓に3社が別に存在していたが、(高田村長砂に馨王山安養寺と云あり。此地は理訓許段神社の跡なり。又同村神山に高田山光寂寺と云あり、其地は往古の登奈孝志神社、又同村衣楯の杜と云処に鳳里山某寺と云しは衣太手神社の跡なり。)中世山頂に集められた。
江戸中期に現地に里宮が建立された。
理訓許段を素直に読めば「リクンコタン」となる。「リクン」は、アイヌ語で「高い(所に)・属する」である。「コタン」は村とか郷の意味である。合わせて、高所にある村、がリクンコタンの原義と思われる。
寛延3年(1750)7月に會津宗英寺住職が、山上に金銅佛三体を奉納しようとして八合目まで上げた時、大暴風雨となり地鳴りがしたため人々は佛像を捨てて下山した。のち肝入は、神山に一度も佛像を上げたことはないのであるからと横田長徳寺に取り下げさせた。その結果、山は平常に戻つたが、この事件の七日間平地は晴天なのに山だけが大嵐であつたので、「氷上山大騒擾」と言われたとの伝えもある。
現在も山麓に当社が里宮としてあり、山上に理訓許多神社(西の御殿)、登奈孝志神社(中の御殿)、衣太手神社(東の御殿)が奥宮として鎮座している。


旧地について

気仙聞老志に高田村の長砂と申所に往古馨王山安養寺と云あり。此地は理訓許段神社の跡なり。又同村神山に高田山光寂寺と云あり、其地は往古の登奈孝志神社、又同村衣楯の杜と云処に鳳里山某寺と云しは衣太手神社の跡なり『特選神名牒』
三社今在高田村氷上山上、称西殿中殿東殿、相去各十余町、合称曰氷上三社権現、爲郡鎭守、土人云、距氷上北五十余町有一山、即理訓許段旧趾、其西北七八町、又有一山、是爲登奈孝志旧趾、其西十六七町又有山、称衣太手峰、亦其遺地、今尚有下存小祠者『大日本史・神紙志』
理訓許段神社  祭神 建速素蓋鳴神 西御殿
登奈孝志神社  祭神 中稻田姫命 東手摩乳神
                 西足摩乳神
衣太手神社   祭神 天照皇大神 東御殿

式内社調査報告



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