慧日寺とは神仏混合で磐梯明神として磐梯山の頂には祠があり御神体が祀られていた。明治初頭に発せられた神仏分離令によって神社として独立し「舟引き祭り」などの例祭を慧日寺より受け継いだ。 「舟引き祭り」は600年以上前から行われた祭りで舟型の太い木の台の上に俵を三表と幣束を立て東西の両端から太い綱で引き合います。引き合いは3度行われて東が勝てば豊作、西が勝てば米の値段が上がると言われている。 |
磐梯神社の舟引きと巫女舞 毎年、春彼岸の中日に磐梯神社の祭礼の中で行われている「磐梯神社の舟引きと巫女舞」は、平成17年4月15日に福島県指定重要無形民俗文化財に指定されました。 磐梯神社の舟引き祭り 本寺地区の青年たちにより継承され、春彼岸の中日に行われています。 長さ2.7m、幅34cmの太い舟型の木の台に新たに編んだ俵を3俵積み重ねて幣束(へいそく)を1本立て、台の両端には長くて太い綱を2本ずつ縛りつけ東西の向きに置きます(もと俵には白米をいれたらしい)。一同が綱につかまると大太鼓を合図に引き始めます。近年引き手には地域の人々も加わっており3回引き合い、東が勝てば豊作で米の値段が上がり、西が勝てば凶作で米の値段が下がるといわれています。 古くは、鎮座地の本寺と隣接する大寺両集落での競争であったといわれています。 勝敗の判定は、面をつけて幣束(へいそく)を持った神職(しんしょく)が行います。これは「磐梯明神」といい、このように神がその場に姿をあらわして判定することはめずらしいと言われます。。最後は直合があってすべてが終了します。 もともとは巫女舞と舟引き祭りは違う日に行われていました。現在のように春彼岸の中日に行われるようになったのは、明治以降の神仏分離によって磐梯神社が建立されたとき、かつての恵日寺の行事が磐梯神社の神事として受け継がれてからのようです。 おそらくこの時期に舟引きと巫女舞が合わせて行われるようになったのではないかと考えられます。 http://www1.town.bandai.fukushima.jp/kanko/event/fune_miko.htm |
磐梯神社 我々の心のよりどころである磐梯神社の由来は、磐梯山慧日寺の建立まで遡る。 そもそも慧日寺は薬師如来を本尊とし、奥宮に磐梯明神を祀る神仏混淆の霊場として栄え、明治の廃仏毀釈政策によって、明治2年廃寺となった恵日寺薬師堂に磐梯明神を祀って磐梯神社とした。 しかるに、明治5年6月の火災によって薬師堂及び鐘楼が焼失したため、類焼を免れた仁王門に御神体を納めて磐梯神社の体裁を整え礼拝を続け明治19年に郷社の社格を得ると共に、氏子の間から社殿薪築の声が高まり大正12年、焼失して空き地となっていた元恵日寺薬師堂跡に神殿を建て「御国祭(舟曳祭)」や「大頭小頭稲初穗」が年中行事として伝承されて来た。 その後、昭和45年に磐梯神社境内地を含む三3.6haの土地が史跡慧日寺跡として国指定となり、以後、磐梯町史跡整備計画に基づく土地公有化事業が進あられ、平成5年12月に町からの磐梯神社移転計画に関する検討依頼に基づき、当地区では史跡整備検討委員会を設け約3年の歳月を掛けた慎重審議の結果、集落の北東部に位置する並杉地区に磐弟神社移転を決定する。 また、建設委員会を設けて旧来から伝承された建築様式や景観に配慮した造成工事等の計画を樹立し、平成12年5月着工となり、現代技術の粋を傾注し総事業費約壱億参千万円余の巨費を投じ、ここに完成するに至る。 この大事業が達成し得たのは、歴代の本寺区役員並びに神社役員、総代や建設委員はもとより地区住民のたゆまぬ努力、そして国県町をはじめ神社庁等の格別なる御指導御高配の賜であり、ここに深甚なる感謝と敬意を表するものである。 今後も蒸民を見守るように鎮座する磐梯神社を中心に、農耕礼儀を通じ朝な夕なに神との親密な関わりと家族の安穏を願う霊場とならんことを祈念し、この大事業を後世に伝えるため竣功記念碑を建立しこれを銘記する。 平成12年12月吉日 磐梯神社宮司土屋泰直 撰文 社頭石碑 |