磐椅神社
いわはしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】磐掎神社 陸奥国 揶磨郡鎮座
          (旧地)磐梯山

   【現社名】磐椅神社
   【住所】福島県耶麻郡猪苗代町西峰 6199
       北緯37度34分16秒,東経140度6分17秒
   【祭神】大山祇命 埴山姫命
       (配祀)譽田和氣命 息長足姫命 木花之佐久夜比賣命 磐長姫命

   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】和銅年中勧請
       天平元年(729)8月25日見袮山南麓の現在地に遷
       斉衡2年(855)正月二十八日従四位下
       天暦元年(947)勅使御差遺
       承元元年(1207)夏現在の所に旧社殿のまま御遷座
       天正己丑兵乱の後衰微
       蒲生秀行の時に社領没収
       寛文年中(1660〜72)社殿造営
       萬治2年(1659)保科正之正之当社に参詣
       寛保3年(1743)閏4月12日正一位

   【関係氏族】
   【鎮座地】応神天皇の御代磐椅山[いわはしやま](磐梯山)の頂上に鎮座
        天平元年(729)8月25日見袮山南麓の現在地に遷

   【祭祀対象】磐梯山
   【祭祀】
   【公式HP】 磐椅神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・幣殿

   【境内社】磐椅天満宮・稲荷神社
   【別当】神野寺跡が土町の北の田圃の中にあり、山号を鎮護山

神功皇后摂政のとき、武内大臣が勅命を奉じ、大山祇、埴山姫の二神を磐梯山の嶺に奉齋せられたのを創建とする。
会津五桜の大鹿桜あり。小川に面した神社。
会津の名峰磐梯の山霊を祭つたものであろう。


由緒

会津はもとより県内外の人々から「いわきさま」と親しまれている社は歴史が古く、その格式は東北でも有数で、延喜式内勅祀社・神階正一位・旧県社・陸奥国神従四位・会津總産土神と名高い。
そのおこりは、はるか昔、応神天皇の御代(弥生時代)神功皇后摂政五十年の(250)時、武内大臣の巡視のみぎり勅命を奉じ国土開発の神なる[大山祇命・埴山姫命]を磐椅山[いわはしやま](磐梯山)の頂上に鎮座された。
又、聖武天皇の御代(奈良時代)天平元年(729)8月25日見袮山南麓の現在地に遷座し、相殿として誉田和気命(応神天皇)息長足姫命(神功皇后)を配祀す。
これらの神々は縁結び・豊作祈願・方除開運・等全ての開発開運の神様として名高く古来有名であります。
十世紀の始めに「延喜式」の神名帳に、磐椅神社は耶麻郡一座にとしてあり、昔は右に神殿門宏麗にして廻廊鐘桜及数座の末社相連なり往時は神輿の渡御、流鏑馬等の神事を行はせられたものであった、立派な神輿は社殿に保存されている。
村上天皇の御代(平安時代)天暦元年(947)勅使御差遺あり、由来お尋ねありし時桜樹を奉献せられ社殿修復し、この時の桜樹が大鹿桜である。
花弁のなかから葉が出るという珍しい桜の大木で、見頃は5月5日〜10日頃である、会津五桜の一つである。
順徳天皇の御代(鎌倉時代)猪苗代城主三浦経連が承元元年(1207)夏現在の所に旧社殿のまま御遷座され杉を植え、これを鳥居杉と称す。
天正年中、伊達政宗摺上原の合戦後一時衰微するに至りるを会津藩主保科正之公が寛文年中(江戸時代1660〜1672)社殿を御造営になる、万治二年正之公当社に参詣して没後末社たらんことを告げて神事を行う、因って当社の末社として土津大明神(土津神社)これ正之の靈なり。
会津磐梯山は明治21年の大爆発で変形したが、以前の山容はととのい、山頂は高く天に向かってそびえ立っていた石(磐)の梯(はしご)すなわち「いわはし」の山であった、このようにして、古い歴史と社格をもった磐椅神社は会津磐梯山は父なる山で母なる会津の里に豊作をもたらす神として、人々の信仰のよりどころであり会津の土着の信仰に基づく神体山崇拝の神社で磐椅大明神・峰明神として古くより東北の文化的・精神的な一大支柱として今日に至っております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




磐椅神社

御由緒
磐椅神社
御祭神 大山祇神・埴山姫命
相殿 木花佐久夜毘賣命・磐長姫命
    品陀和氣命・息長足姫命
 会津はもとより県内外の人々から「いわきさま」と親しまれている社は歴史が古く、その格式は東北でも有数で、延喜式内社勅祀社・神階正一位・旧県社・陸奥国神従四位.会津総産土神と名高い。
 その起りは、はるか昔、応神天皇の御代(弥生時代)神功皇后摂政50(西暦250)年の時、武内大臣の巡視のみぎり勅喰を奉じ国土開発の神なる[大山祇神・埴山姫命]を磐椅山[いわはしやま](磐梯山)の頂上に鎭座された。
 又、聖武天皇の御代(奈良時代)天平元(西暦729)年8月25日、見祢山南麓の現在地に遷座し、相殿として品陀和氣命(応神天皇)息長足姫命(神功皇后)を配祀す。これらの神々は縁結び・豊作祈願・方除開運等全ての開発開運の神様として名高く古来有名であります。
 10世紀の始めに「延喜式」の神名帳に、磐椅神社は耶麻郡一座にとしてあり、昔は右に神殿門宏麗にして廻廊鐘楼及数座の末社相連なり往時は神輿の渡御、流鏑馬等の神事を行わせられたものであった、立派な神輿ほ社殿に保存されている。
 村上天皇の御代(平安時代)天暦元(西暦947)年、勅使御差遣あり由来お尋ねありし時桜樹を奉献せられ社殿惨復し、この時の桜樹が大鹿桜である。花弁の中から葉が出るという珍しい桜で見頃は5月5日〜10日頃である会津五桜の一つである。
 順徳天皇の御代(鎌倉時代)猪苗代城主三滝経連が承元元(西暦2107)年、夏現在の所に旧社殿のまま御遷座され、杉を植えこれを鳥屠杉と称す。天正年中、伊達政宗摺上原の合戦後一時衰微するに至りるを会津藩主保科正之公が、寛文年中(江戸時代1660〜1672年)社殿を御造営になる。万治2年正之公当社に参詣して没後末社たらんことを告げて神事を行う。因って当社の末社として土津大明神(土津神社)これ正之の霊なり。
 会津磐梯山は明治21年の大爆発で変形したが、以前の山容は整い、山頂は高く天に向かってそびえ立っていた石(磐)の梯(はしご)即ち「いわはし」の山であった、このようにして、古い歴史と社格を持った磐椅神社は会津磐梯山は父なる山で母なる会津の里に豊作をもたらす神として、人々の信仰のよりどころであり会津の土着の信仰に基ずく神体山崇拝の神社で磐椅明神・峰明神として古々より東北の文化的・精神的な一大支柱として今日に至っております。
年中行事
1月1日 歳旦祭
年中 方除開運祈願 家内安全・商売繁昌・
交通安全・初宮参り他
1月25日 初天神 入試合格祈願
2月3日 節分祭 厄除開運祈願
2月25日 本天神 学業安泰
4月下旬〜 5月上旬 大鹿桜祭
5月14〜15日 春祭
6月末日 水無月大祓 健康長寿
10月(体育の日) 例大祭
12月25日 納天神 合格祈願
12月31日 年越大祓 健康長寿
毎月10日 月次祭
毎日 御日供祭
(おおしかざくら)
天暦元年(西暦947)村上天皇の勅旨が奉納したという、サトザクラの一品種の八重桜(子菊桜)で、「会津の五桜」のひとつ。
 「高さ一丈六尺余、枝葉二丈(3b強)ばかりに広がり極めて老樹なり。」(『新編会津風土記』)とある。標高580bの高地に咲く桜として、「花の中心雌芯(しずい)の変化した2、3の葉が生じた花弁も70数枚になる」という珍しい桜である。開花の時は白色だが暫時鹿の色に似る。開花期間が長いことから、別名「翁桜」とも呼ばれる。最近は4月になると桜ツアーでの団体の見学者でにぎわう。見ごろは大体、5月の連休から咲き始め、5月いっぱいは見ることができる。
縁結び桜 これは当神社入り口の鳥居杉中ほどの二股別れの所に、山桜の寄生木が昭和40年ごろに発見され、その後現在に至るまで元気に発育し毎年咲き誇っています。杉木に桜が“縁結び”。
重要文化財・天然記念物
鳥居杉  元久二(西暦1205)年、猪苗代城主三浦経連が磐椅神社に社領を寄進し、2年後の承元元年夏に大鹿桜の傍ら、現土田堰の南にあった神社を現在の地に遷座して、その時に鳥居の杉として社殿に植樹された。樹齢は790年以上になる。西側にも同じく杉があったが、幾度かの落雷で半月空洞状態となり、昭和33年に大部分が倒壊し、さらに、昭和61年夏に長雨のため完全に倒れてしまった。しかし、一本になったとはいえ、磐椅神社の神木として古い歴史の語り、神社の尊厳を保っている。現在は、縁結び桜が根付き、新たな趣を醸し出している。下の写真は2本とも残っているころのもの(猪苗代史 歴史編、昭和57年発行より)
三十六歌仙 縦一尺八寸四分(約56cm)、横一尺二寸一分(約37cm)の絵画様額に詠人名と献納者と住所が書かれているが年月日が記されていないためいつの時代か不明出であるが、書体及び画の彩色などからみて江戸時代のものと考えられる。書といい、絵といい、優美であり、かつ歌仙の額という見地から、まことに文化的価値の高いものである。なお、三十六歌仙とは、第66代一条天皇の時に藤原公任が選定した歌人で、各々の代表的な和歌を挙げている。
 神社境内の地下23mより湧き出る霊水です。水量は毎分20gで、水温は四季により10℃弱で、夏は冷たく、冬はとても暖かく、まろやかな飲み口です。
会津名水紀行にも紹介されています。はるばる遠くから汲みに来るかたも多く、病気にも効くと評判です。ぜひ一度お試しを。なお、「宝の水」と称した御神酒もお求めになれます。

公式HP



磐椅神社

延喜式内勅祀社正一位・会津総産土神
会津磐梯山の大神
磐椅神社
御祭神 大山祇神・埴山姫命
相殿  木花之佐久夜昆売命・磐長姫命
    品陀和気命・息長足姫命
御由緒
会津はもとより県内外の人々から「いわきさま」と親しまれている社は歴史が古く、その格式は東北でも有数で、延喜式内勅祀社・神階正一位・旧県社・陸奥国神従四位・会津総産土神と名高い。
その起りは、はるか昔、応神天皇の御代(弥生時代)神功皇后摂政50年(250)の時、武内大臣の巡視のみぎり勅命を奉じ国土開発の神なる「大山祇神・埴山姫命」を磐椅山(いわはしやま](磐梯山)の頂上に鎭座された。
又、聖武天皇の御代(奈艮時代)天平元年(729)8月25日、見祢山南麓の現在地に遷座し、相殿として品陀和氣命(応神天皇)息長足姫命(神功皇后)を配祀す。これらの神々は縁結び・豊作祈願・方除開運等全ての開発開運の神様として名高く古来有名であります。
十世紀の始めに「延喜式」の神名帳に、磐椅神社は耶麻郡一座にとしてあり、昔は右に神殿門宏麗にして廻廊鐘楼及数座の末社相連なり往時は神輿の渡御、流鏑馬等の神事を行わせられたものであった、立派な神輿は社殿に保存されている。
村上天皇の御代(平安時代)天暦元年(947)勅使御差遣あり由来お尋ねありし時桜樹を奉献せられ社殿修復し、この時の桜樹が大鹿桜である。花弁の中から葉が出るという珍しい桜で見頃は5月5日〜10日頃である、会津五桜の一つである。
順徳天皇の御代(鎌倉時代)猪苗代城主三浦経連が承元元年1207)夏現在の所に旧社殿のまま御遷座され、杉を植えこれを鳥居杉と称す。
天正年中、伊達政宗摺上原の合戦後一時衰微するに至りるを会津藩主保科正之公が、寛文年中(江戸時代1660〜72)社殿を御造営になる。万治2年正之公当社に参詣して没後末社たらんことを告げて神事を行う、因って当社の末社として土津大明神(土津神社)これ正之の霊なり。
会津磐梯山は明治21年の大爆発で変形したが、以前の山容は整い、山頂は高く天に向かってそびえ立っていた石(磐)の梯(はしご)即ち「いわはし」の山であった、このようにして、古い歴史と社格を持った磐椅神社は会津磐梯山は父なる山で母なる会津の里に豊作をもたらす神として、人々の信仰のよりどころであり会津の土著の信仰に基ずく神体山崇拝の神社で磐椅明神・峰明神として古々より東北の文化的・精神的な一大支柱として今日に至っております。

由緒書



磐椅神社

町指定天然記念物
大鹿桜
(昭和44年8月1日指定)
別名「翁桜」とも称され会津の五桜の一つに数えられている名木で、花の色が白色からしだいに鹿の毛の色に変化するところから、この名前がつけられた。社伝によると、今より約一千年前天歴年中(九四七〜九五七)村上天皇の勅使が参拝のときに京都から持ってきて植えたとなっている。現在はその子孫である。樹の種類はサトザクラの一品種である。花の中心からおしべが緑化したものがでているので、ちょうど花の中から葉が出ているように見える珍しいものである。 福島県緑の文化財登録第一号である。
猪苗代町教育委員会
(平成4年11月1日設置)

延喜式内勅祀社(旧県社)
磐椅神社
祭神 大山祇命 埴山姫命
相殿 誉田和気命 息長足姫命
察日 例大祭 10月10日 春祭 5月14・15日
由緒
当社は縁起式内祀社にして応神天皇の御代、神功皇后摂政の時、武内大臣の巡視のみぎり勅命を奉じ、国土開発の神たる大山祇命、埴山姫命を磐梯山の嶺に奉斎す。又元明天皇の御代、和銅年間の草創とも云われる。聖武天皇の御代、天平元年8月25日、見祢山南麓に遷座し相殿として誉田和気命(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后)を配祀す。
平城天皇の御代、大同元年夏、万代山破裂により社殿損障によって、嵯峨天皇の御代、弘仁4年、御造営される。文徳天皇の御代、斉衡3年正月「陸奥国・石椅神加授四位下」と文徳天皇実録に見ゆるこの神号、磐椅、岩椅、石椅に作りしを、明治2年、民政局より、磐椅(いわはし)との旨通達あって改む。村上天皇の御代、天暦元年、勅使御差遣あり、由来を尋ねありし時、宸翰物及び桜樹を奉献せられ社殿修復、奉幣の儀あり、この際の桜を大鹿桜と称す。土御門天皇の御代、元久2年、猪苗代城主、三浦経連、社領八千余町の寄進あり。次で承元元年夏、現在の所に御遷座され杉を植え、比れを鳥居杉と称す、承久年間には三浦盛常二千三百町を帰任あり。伏見天皇の御代、正応年中、藤原氏の女、御皇威の衰へ給へるを痛く嘆き、私に神功皇后応神天皇の御影を鋳せられ神鏡金銀の幣額等を添えて永仁3年密使を以て奉献せらる。寛文年中保科正之公社殿の御造営あり。寛保3年閏4月12日正一位の神階を授奉せらる。
会津磐梯山は父なる山で、母なる会津の地に豊作をもたらす神として、人々の振興のよりどころであり磐椅神社は会津の土着の信仰に基づく神体山崇拝の神社で、磐椅明神、峰明神として信仰されている。
昭和61年5月15日
宮司 伊東政則

社頭掲示板



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