日本最初の産金地に鎮座している。 社前は「天平ろまん館」となっている。境内も現代風に公園として整備されている。古代砂金の採取遺跡がある。 当地では金が発見される前から神が祀られており、小田郡(現:遠田郡)の人日下部深淵が、産金当時の神主であった。産金前の名は黄金山でなかったはずだが、不明である。 |
黄金山産金遺跡 平成16年2月20日更新 / 文化財保護課 黄金山産金遺跡 国指定 記念物 史跡 涌谷町北部の狭隘な谷間にある延喜式内社黄金山神社一帯が遺跡である。奈良時代、東大寺の盧舎那大仏造営にあたって、仏身に塗る金が不足し憂慮していた時、陸奥守百済王敬福が黄金900両(13.5kg)を献じた。その金を用いて天平21年(749)大仏は完成したのである。これを喜んだ聖武天皇は、年号を天平感宝と改めるなど、国家的慶事として種々の施策を発表した。また、大伴家持もこのことを祝う歌を詠じている。 昭和32年、神社周辺を対象とした発掘調査によって、奈良時代の瓦とともに数個の礎石跡が検出され、産金を記念した六角堂と思われる仏堂が建てられていたことが判明した。なお、付近からは「天平」の箆描きのある宝珠片・丸瓦片も採集されている。 http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/siteibunkazai/siseki/kunisiseki/kuni-siseki07.htm |
黄金山神社 湧谷は、日本で初めて金(砂金)が採れた所である。それは奈良時代聖武天皇によって東大寺の大仏が建立されていたときのことである。 大仏は銅で鋳造した後渡金する金銅仏であった。だがこの渡金用の金が不足し、大仏の完成が危ぶまれていた。そこへ天平21(749)年、湧谷から日本で初めて産出した砂金900両(約13Kg)が、陸奥国守百済王敬福によって献上された。この砂金によって大仏は無事完成したのである。 このできごとは世の中を大きくわかせ、聖武天皇は年号を天平から天平感宝へとかえ、大伴家持は初産金を祝して詩を詠み、万葉集に残した。 黄金山産金遺跡は、発掘調査によって奈良時代の建物跡が発見された。この建物は、産金を記念して建立された六角円堂と推定されており、天平産金の重要な関連遺跡として、昭和42年国史跡の指定を受けた。 一方黄金山神社の歴史は古く、初産金のあった天平21(749)年、砂金の採れた山に神社のあったことを示す記録がある。この神社が湧谷の産金と深い関わのにある黄金山神社で、後に国の官社となった。その後砂金の枯渇とともに朽ちたが、江戸時代に沖安海によって再興され、現在も人々の信仰を集めている。 かって砂金を取った地域は、箟岳丘陵一帯と考えられている。今でもこの丘陵のあちこちの沢から採れるわずかな砂金が、古代の栄華を現代に伝えている。 社頭掲示板 |
黄金山神社 歴史と由来 時は8世紀。涌谷周辺の地域は「小田郡」と呼ばれ、宮城県北東部諸郡の中心になっていました。 聖武天皇が即位した神亀元年(724)は、律令政治が安定するまで多くの政治闘争が起こり、政府が積極的に東北進出を図った時期でした。アジアでは活発なシルクロード交易が日本にさまざまな物資や文化をもたらす一方、朝鮮半島の新羅が唐と結んで勢力を増長し、東アジア各国間の緊張が高まった時代でもありました。 このような国内外の政乱に応じて聖武天皇は何度か都を遷したので、人々の不安は一層高まり、加えて地震や天候不順、飢餓などの天災や天然痘の大流行などが続き、世情は大きく揺れ動いていました。たび重なる災いに、聖武天皇は鎮護国家の思想から世の中の平和を仏に祈願し、天平15年(743)永遠に照らし続ける光明によって人々を救うと言われる廬舎那仏建立の詔を発布したのです。この廬舎那仏が世界最大の金銅仏(銅に鍍金して仕上げる仏像)である「東大寺の大仏様」です。 しかし、大仏建立にあたって、最大の問題は鍍金用の金でした。当時、金はすべて輸入しており、大仏に鍍金する膨大な量を手に入れる見込みは全くなかったのです。金の不足で大仏の完成が危ぶまれていた天平21年(749)陸奥国守百済王敬福が、小田郡産出の黄金(砂金)900両(約13kg)を献上したのです。 天皇は宣命を発して大いに喜び、年号を「天平」から「天平感宝」へと改めたほどです。 大仏はこの黄金で完成の見込みがたち、天平勝宝4年(752)、盛大な大仏開眼の供養会が催されました。この供養会には、日本だけでなく外国からも大勢の僧が列席した上、さまざまな舞楽が披露されるなど、仏教が日本に伝わってから最も盛大な儀式であったと伝えられています。 小田郡の産金に報い、陸奥国の租税は3年間免除され、陸奥国守百済王敬福をはじめ関係者には、位階を進めてその功を賞されました。また、祈願奉斎が行われ、地方的神社として存在しておりました黄金山神社は、天平産金に縁起を有したことにより、『延喜式神名帳』に登載され、延喜式内社という由緒ある社、国家の神社となりました。 神社周辺からは、「天平」と刻まれた瓦が出土しており、昭和32年に実施された神社周辺の発掘調査により、建物の柱跡四基が発見されました。この建物は、当時世の中をわかせた産金を記念して建てられたものと考えられ、奈良時代の建築址が明らかになりました。 建築址は神殿のうしろ、玉垣の中の神木付近で、産金を記念し仏に感謝するため、陸奥国府の役人により建てられた仏堂であろうと推定されています。仏教が国家の政治と結び付き、神も仏もほとんど差別なく、むしろ仏教が優位の時代でありましたので、産金の盛んな間は神社と仏堂とは並んで存在したと考えられています。 しかし、ゴールドラッシュの時代が去り、鎌倉初期以降、土地の人々が砂金獲得から農業へと転じ、仏堂は朽ちていきましたが、神社だけは民衆の信仰に支えられ今日に至っており、現在の拝殿は江戸時代末期に再建されました。 昭和32年の発掘調査により日本の初産金の地は涌谷だったことが改めて確認され、 昭和34年9月、神社境内は「天平産金遺跡」として宮城県史跡に指定、昭和42年、国史跡の指定を受けました。 神社境内 昭和32年の発掘調査により日本の初産金の地は涌谷だったことが改めて確認され、昭和34年9月、神社境内は「天平産金遺跡」として宮城県史跡に指定、昭和42年、国史跡の指定を受けました。 天平21年(749)4月、陸奥の産金に歓喜した聖武天皇は、造営中の大仏の前で感謝の詔を発布しました。この詔書を言祝いで、翌5月に大伴家持が詠んだ長歌一首と反歌三首が「陸奥国より金を出せる詔書を賀ぐ歌」です。 これが万葉集巻18におさめられており、その中の反歌の一つが歌碑に刻まれた「須売呂岐能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知能久夜麻爾 金花佐久」です。長歌には「鶏が鳴く東の国の陸奥の小田なる山に金ありと奏し賜へれ…」という言葉も見られます。 黄金山神社の境内には大槻文彦博士撰文の「日本黄金始出碑」があり、その傍らに昭和29年9月、山田孝雄博士の揮毫により万葉歌碑が建立されました。 万葉集には、ほかに陸奥の地をはっきり詠んだ歌が6ヵ所9首ありますが、「みちのく山」を除けば、ほかはすべて現在の福島県に属する場所で、涌谷町より北の地は万葉集には歌われておらず、ここが万葉北限の地ということになり、『万葉図録』にとりあげられてから、万葉遺蹟として全国の学者・文人方も多数訪れています。 社頭掲示板 |
黄金山神社 【国史跡指定】 平和を願った東大寺の大仏様の建立に金を献上した 天平産金地に鎮座する由緒ある神社 時は8世紀。聖武天皇が即位した神亀元年(724)は、律令政治が安定するまで多くの政治闘争が起こり、政府が積極的に東北進出を図った時期でした。アジアでは活発なシルクロード交易が日本にさまざまな物資や文化をもたらす一方、朝鮮半島の新羅が唐と結んで勢力を増長し、東アジア各国間の緊張が高まった時代でもありました。 このような国内外の政乱に応じて聖武天皇は何度か都を遷したので、人々の不安は一層高まり、加えて地震や天候不順、飢餓などの天災や天然痘の大流行などが続き、世情は大きく揺れ動いていました。たび重なる災いに、聖武天皇は鎮護国家の思想から世の中の平和を仏に祈願し、天平15年(743年)永遠に照らし続ける光明によって人々を救うと言われる廬舎那仏建立の詔を発布したのです。この廬舎那仏が世界最大の金銅仏(銅に鍍金して仕上げる仏像)である「東大寺の大仏様」です。 しかし、大仏建立にあたって、最大の問題は鍍金用の金でした。当時、金はすべて輸入しており、大仏に鍍金する膨大な量を手に入れる見込みは全くなかったのです。金の不足で大仏の完成が危ぶまれていました。そのような中、日本で初めて金を産出し、天平21年(749)陸奥国守百済王敬福が、小田郡産出の黄金(砂金)900両(約13kg)を献上したのです。 天皇は宣命を発して大いに喜び、年号を「天平」から「天平感宝」へと改めたほどです。 大仏はこの黄金で完成の見込みがたち、天平勝宝4年(752)、盛大な大仏開眼の供養会が催されました。この供養会には、日本だけでなく外国からも大勢の僧が列席した上、さまざまな舞楽が披露されるなど、仏教が日本に伝わってから最も盛大な儀式であったと伝えられています。 小田郡の産金に報い、陸奥国の租税は3年間免除され、陸奥国守百済王敬福をはじめ関係者には、位階を進めてその功を賞されました。また、祈願奉斎が行われ、地方的神社として存在しておりました黄金山神社は、天平産金に縁起を有したことにより、『延喜式神名帳』に登載され、延喜式内社という由緒ある社、国家の神社となりました。 神社周辺からは、「天平」と刻まれた瓦が出土しており、昭和32年に実施された神社周辺の発掘調査により、建物の柱跡四基が発見されました。この建物は、当時世の中をわかせた産金を記念して建てられたものと考えられ、奈良時代の建築址が明らかになりました。 建築址は神殿のうしろ、玉垣の中の神木付近で、産金を記念し仏に感謝するため、陸奥国府の役人により建てられた仏堂であろうと推定されています。仏教が国家の政治と結び付き、神も仏もほとんど差別なく、むしろ仏教が優位の時代でありましたので、産金の盛んな間は神社と仏堂とは並んで存在したと考えられています。 しかし、ゴールドラッシュの時代が去り、鎌倉初期以降、土地の人々が砂金獲得から農業へと転じ、仏堂は朽ちていきましたが、神社だけは民衆の信仰に支えられ今日に至っており、現在の拝殿は江戸時代末期に再建されました。 昭和32年の発掘調査により日本の初産金の地は涌谷だったことが改めて確認され、昭和34年9月、神社境内は「天平産金遺跡」として宮城県史跡に指定、昭和42年、国史跡の指定を受けました。 「大日本史」云。黄金山神社、今在遠田郡涌谷村黄金迫之地、世似牡鹿郡金華山祠為本社者誤矣。 天平勝宝元年小田郡始出黄金、因建祠祭山神。延喜制列小社。 『続日本書紀』云。天平21年2月(749年)、陸奥国始貢黄金、於是奉幣以告幾内七道諸社。 「同書」同年閏5月、出金山ノ神主小田郡日下部深淵少位下。 沖安海 伊勢白子は、本居大平に就き国学和歌を学び、その学才を称されました。当時、嘉永36歌仙の1人として著名であり、世々染形紙販売を家業とし常に奥羽地方に行商し、「黄金山神社号」を著し本社の復興に尽しました。就いて学ぶ者が多く、「栗原旧地考」「陸奥軍團旧地考」の著者樺翁岩崎綱雄(栗原郡北字沢村の人)はその門人であるといわれます。 公式HP |
黄金山神社 この地(黄金迫)は古の小田郡に属し、聖武天皇21年(749、奈良)春陸奥守百済王敬福はじめて黄金を得て2月貢し、同年壬5月金を出した山ノ神の神主小田郡日下部深淵に叙位したことが「続日本紀」に見えているので本社の創祀は蓋しこの年になされたものである。延喜の制小社に班す。天正18年(1590、桃山)3月野火のため社殿鳥有に帰したが3年後の文禄2年再建、後久しく荒廃して寛政・享和のころには年々の祭礼は行われず、往来の道さえ絶え果て、礎石のみ存し空しく「黄金宮」の名だけのこっていた。しかるに文化10年4月伊勢白子の人沖安海いたくこれを憂い、社跡を実査の上、金三十両を献納し神社の再興の途をひらいた。文政天保の交村内に悪疫流行した。それは神事怠慢の神譴によるものと恐惶して村民相はかり天保6年彼の安海の献金を基金に神社再興に着手、同8年拝殿(現存)一宇を竣工した。本殿は明治4年4月愛宕神社(もと亘理郡に在り。天正12年亘理元宗の勧請、同19年字大崩に移社、邑主亘理家(伊達氏)の崇敬社である。明治42年5月字月浦の月山神社と共に本社に合祀する。)の本殿を改造したものである。これより先明治5年5月県社に列せられる。広大な境内地に黄金洗沢、黄金洗井があり日本最初の出金地といわれていたが、昭和32年社殿附近の発掘によって建物基壇が発見され、また箆書天平文字瓦・単弁重蓮華紋鎧瓦・唐草連珠紋字瓦・牡瓦など夥しく出土し、これら境内の遺構は、産金にちなんだ建物跡と考えられ、奈良時代の産金遺跡として、いよいよ歴史的意義が深く、昭和34年9月「産金遺跡」として県の史跡に、又、42年12月には「黄金山産金遺跡」として国の指定をうけた。なお拝殿前には大槻文彦博士の撰文「日本黄金始出地碑」(明治45)と山田孝雄博士揮毫の大伴家持の歌碑(万葉集巻十八所収)が立っている。 宮城県神社庁 |