蚕養国神社
こがいくにじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】蚕養国神社 陸奥国 会津郡鎮座

   【現社名】蚕養国神社
   【住所】福島県会津若松市蚕養町2-1
       北緯37度30分17秒、東経139度56分21秒
   【祭神】保食大神 (配祀)稚産靈大神 天照大神
   【例祭】8月1日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】弘仁2年(811年)鎮座
       承和年中官社(834−48)
       寛弘7年(1011年)社殿を草創
       寛保3年(1743年)正一位
       文化4年(1807)社殿焼失
       文政2年(1819年)造営
       明治5年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 蚕養国神社
   【社殿】本殿皇子造
       拝殿・社務所

   【境内社】稲荷神社・鬼渡神社・護忠霊社・宗像神社
       和霊神社・稲荷神社・荒神社・鬼渡神


『会津若松史』には、蚕養国神がとくに官社に列したのは、ここでの養蚕の歴史が神代にさかのぼるほど、古くから著名であったからだというのではなくて、これから養蚕をおこすためにまつられた神なのである。としている。


由緒

会津の蚕養様 当神社は、日本一社にして、延喜式神明帳に、陸奥国一百座の一つである。52代嵯峨天皇の御代弘仁2年(811年)鎮座にて、54代仁明天皇承和年中に、陸奥・出羽・両国の按察使兼鎮守府将軍藤原富士磨朝臣の奏にて、官社に例せられ、醍醐天皇の御代、延喜式選定の折、式内の社となる。一条天皇寛弘7年(1011年)に、県令、石部少将道秀・堂家左京太夫憲照・石塚丹後頼春等により、社殿を草創す。その時の神官を、蚕養蔵人という。その後、兵火のため社殿炎上し神籬の境内であったが、保科正之侯が、官工、鷹谷弥十郎宗清に命じ、社殿以下を造営し、社領二十石を寄付、櫻町天皇寛保3年(1743年)には、正一位の極階に進まれた。文化4年、社殿焼失し、文政2年(1819年)松平容敬朝臣・社殿以下を、正之侯創立に写し造営、今日に至る。
社殿広壮、巨大なる境内・風致の深遂幽遠なる、会津稀有の大社にして、神威遠く他方 に及んでいる。 明治5年県社の格に加列される。春4月19・20日の両日の、講社祭は、年中行事の最大のものであり県内は勿論、県外よりの養蚕家、各郡養蚕連合会、技術員等、多数の参拝者が列をなし、太々御神楽を奏し、当社独特の濁酒、肴膳を供し、大いなるにぎわいを、呈するのである。
当社の濁酒は、古来より伝わりし独特の方法で醸造し、春の講社祭、例大祭に神前に、献酒し、後、直会に供宴し、参拝者に喜ばれ、日本一社、蚕養国神社の名を高めている。
境内社頭には、会津五桜の一つ「峰張桜」があり、毎年、見事な花を咲かせている。
又、当社には、古来より伝わる謡曲「蚕養宮」があり、謡曲愛好家により、謡われている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




蚕養国神社

嵯峨天皇ノ御宇時弘仁年中ノ鎭坐、仁明天皇の御宇承和年中陸奥・出羽両國ノ按察使兼鎭守將軍藤原富士麿朝臣ノ奏ニヨリテ官社ニ列セラル、社領寄附耶麻郡半郡ヲ寄セラル、富士麿宝器ヲ納ム、醍醐天皇ノ御牢・延喜式撰定シ玉フニ至テ式内ノ社トナル、一條院天皇御宇寛弘7年、當縣令石部蒋道・秀堂家左京大夫憲照・石塚丹後頼春等、□カシテ宮殿ヲ草創ス、其時神官ヲ蚕養藏人ト云、其余社仕、氏入等数名アリ、其後社頭兵焚ノ爲ニ炎上シ、神官離散シテ其所在ヲ知ズ、終ニ廃社ノ如クニナリ、タダ神木槻ノ両株アリ、高十余尋、囲ニ丈有余、其一株ハ二百年前雷火ノ爲ニ折砕シテ僅ニ幹根数尋ヲ残ス、其下ニ空地八十許歩アリ、コレ蚕養國神社ノ旧跡ナリト、又是ヨリ西二十歩去テ榎ニ株枝葉繁茂スルアリ、此下ニ俺テ村民一尋ノ小祠ヲ建テ昔時ヨリ蚕養國ノ宮ト称ス、此社東方一丁ヨノ田圃ノ間ニ座ス、数枚ノ礎石アリ、コレ古ノ殿閣廊宇ノ旧趾ナリト、又南ニ綿掛川、蚕養宮橋、繭玉川、乾隅ニ叢養宮村、西ニ樒内川、旧社領地ヲ字蚕養宮分等ノ旧名ヲ存セリ、コレ皆神籬ノ境内ナリ、霊元院天皇寛文4年保科正之當社ノ旧趾ヲ尋ネ、宮工鷹谷彌十郎宗清ヲシテ新ニ宮殿以下ヲ経営ス、マタ蚕養宮村ニオイテ社領十石ノ地ヲ寄附ナシ、大膳亮常尚ヲ神主トナシ、寛文10年6月26日ヨリ28日二至り大祭ヲ行フ、是ヲ以テ永ク例祭トス、寛保3年正一位ノ神階ヲ授ケ玉フ

蚕養國神社記



蚕養国神社

蚕養国神社は、日本一社にして延喜式神名帳にある、陸奥一百座の一つである。
謹んで日本国史を読むと、記紀神代の巻に、
「軻遇突知命、埴山姫命を娶り稚産霊命を生奉る。此神の御頭より蚕生れ出でし。」
とあり、これが我国の養蚕の始まりである。
第52代嵯峨天皇の御代弘仁2年(811)鎮座にて、第54代仁明天皇承和年中に、 官社に列せられ、醍醐天皇の御代延喜式選定の折、式内の社となる。
一条天皇寛弘7年(1011)に、県令、石部少将道秀・堂家左京大夫憲照・石塚丹後頼春等により、 社殿を造営す。その時の神官を、蚕養蔵人という。
その後、兵火のため社殿炎上し神離の境内で あったが、保科正之侯が官工、鷹谷弥十郎宗清に命じ、社殿以下を造営し、社領20石を寄付、 櫻町天皇寛保3年(1743)には正一位の極階に進まれた。
文化4年社殿焼失し、文政2年(1819)松平容敬朝臣、社殿以下を、正之侯創立のものに写し、 今日に至る。
御神徳養蚕守護の神として広く知られ、農、工、商、諸業繁栄、交通安全守神として信仰されている。

公式HP



蚕養国神社

日本国史、記紀神代の巻に「軻遇突知命(かぐつちのみこと)、植山姫命(はにやまひめのみこと)を娶り稚産霊命を生奉る。此神の御頭より蚕生れ出でし」とあり、これが我が国の養蚕の始まりである。養蚕の守り神として弘仁 2 年(811)に鎮座した当社は官社に列せられ、延喜式撰定の折には「名神社・日本一社」と延喜式神名帳に載せられた。会津藩主保科正之候により社殿以下造営され、正一位の極階に進むと共に、「三つ葉葵」を御神紋にする事を許される。
境内には樹齢 1,000 年の「峰張桜(ミネバリザクラ)」が毎年可憐な花をつける。 4 月 19 日の桜花祭は、その桜を愛でるお祭りで、神社謹製の濁酒が振舞われる。 また、毎週土曜日は社務所で「礼節・信義・質素」を学ぶ桜花塾も開催中。対象は小学 5年生 中学 3年生で雅楽・茶道・華道も学ぶ。

福島県神社庁



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