当社の所在する亀居山(=「神居山」)には古墳時代後期の祭祀遺跡が存在する。 東峰東側の中腹に桙衝神社が東面して鎭座し、その背後の山頂の突端部に俗称要石と呼ばれてゐる巨岩(磐座)がある。 |
由緒 長沼町桙衝亀居山の東斜面中腹に、東面して鎮座する。 亀居山とは、亀が伏せたような独立丘に見えたために、その名が起ったというが、また一説には、神居山の転化であるともいわれている。 祭神は、社記によると武甕槌命と日本武尊の二神であるが、桙衝の名称は、伝柊の尋矛を衝き立てた古事に基くものとされている。 一説に日本武尊ではなく、武甕槌命の事績に由来するともいう「延喜式神名帳」延喜4年(904)に登載された社号からみれば、武の神ないし武器の神が祭られたことが明白である。 それはまた、蝦夷征討との関係からであったろう。 養老2年(712)常陸国より移住した民人、常陸国の一宮神を当山の二の平に勧請して、鹿島大明神と称す。 弘仁12年(821)神鉾が塚より現出したので、秘蔵して、祭神の御霊代として崇める。 天喜5年(1057)源頼義、阿部氏誅伐の誓願成就したのをもって、鹿島大明神を桙衝神社に合祀したので、以来、桙衝鹿島大明神と称するようになった。明治3年(1870)、社号を延喜式登載の桙衝神社に復した。 本殿桁行三間、梁間三間で、切妻の三間社流れ造りの形式をとっている。柱は円柱、柿(こけら)葺きで三方縁、妻飾りの大瓶束を始め、虹梁の上下面や懸魚の形などに時代と地方色が濃厚である。 この本殿の建立については、慶安元年(1648)5月の棟札に「奉修造奥州 惣社磐瀬郡惣鎮守桙衝大明神本地十一面観音菩薩社堂一構」と記されていることや、同年月銘の「祈年祭祓」の内容から、当時の白河藩主榊原忠次の命によることが明らかである。 本殿始め本殿に関する棟札12枚を含め、昭和51年県指定重要文化財となった。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
桙衝神社本殿 福島県指定重要文化財(建造物) 桙衝神社本殿 附棟札12枚 昭和51年5月4日指定 所在地 長沼町大字桙衝字亀井山93番地 所有者 桙衝神社 桙衝神社は、建御槌命と日本武尊を祀り、延喜式神名帳に「巖瀬郡一座桙衝神社」と記された式内社である。本社は、中世からは鹿島神宮と呼ばれていたが、明治3年に桙衝神社と再び改称された。 現在の本殿は、慶安元年(1648)白河藩主榊原忠次の命によって建立されたもので、桁行三間、梁間三間、切妻の流造木羽葺の三間社で、三方に縁を付している。 この建物は、妻飾・大瓶束の結綿部分・紅梁の上下面・懸魚の形など徳に時代と地方の特色を示していて、貴重である。本殿の建立、修復の記録として慶安元年から明治年間までの12枚の棟札が保存されており、本殿の修理・屋根葺き替えなどの経過とともに奉行・大工・名主などの氏名が記されており、当時の営繕組織をよく知ることができ、これも貴重な資料である。 福島県教育委員会 社頭掲示板 |
桙衝神社 日本武尊が御東征の折り、この神居山(亀居山)に柊の八尋の矛をつきたて、武甕槌神を祀ったのが神社草創の始めで約2000年前といわれている。 この社は、延喜式内の古社で、岩瀬郡の総鎮守として代々領主の信仰あつく、神域45ヘクタール、一の鳥居隋神門より中世建築の本殿を排す。本殿より左の参道を登れば、祭祀遺跡の「磐座」が現存する。 閏年の10月1日に行われる御輿渡御、太鼓獅子舞は、奈良時代から続いたと伝承される。稚児ばやしと踊りに和して、賑やかに百足獅子が歩む姿は、優雅華麗にして古風ゆかしいおもかげを今に伝えている。また、本殿は県指定の重要文化財である。 長沼町教育委員会 このくにの名におうらかに ひいらぎの やしろのほこを たてしあとなれ 明治38年 室田定幸 社頭掲示板 |