小松神社の論社であるが不詳 |
大崎八幡神社 天喜5年(1057)源義家が奥州討伐の折り、戦勝祈願のためにこの地に社壇を設けたのがこの社の起こりとされている。本社は大崎氏の崇敬厚く正平16年(1361)社殿を再興、大崎八幡と称した。明治5年郷社に列せられる。 社頭掲示板 |
大崎八幡神社 十五、「子松神社と新田柵について」 子松神社と新田の柵について 宮城県遠田郡田尻町八幡 大崎八幡神社 宮司 豊原誠一 大日史巻二五八神紙一五に 陸奥新田郡一座 子松神社・今粟原郡新田村坂戸の地に在り小山神と称す 蓋し下総子松社に祀る所と同神也、延喜式下総神崎社文書 廷喜制 小社に列す とあります。(下総子松神社香取郡に在り) 「注」ここで云ふ新田郡とは西は現遠田郡田尻町の西北部小松から八幡、大嶺、木戸、栗原郡瀬峯町にかけ東は現登米郡迫町、南方町を含む地域を云ふ由。 又ここにある栗原郡とは、現栗原郡全体と現玉造郡鳴子町の内鬼首、現登米郡迫町(佐沼、北方)並に南方町を含む広汎な地域(明治の前まで)云うた由であります。(宮城県史二十五「風土記」参照) 即ち栗原郡新田村とは現登米郡迫町新田のことであり、そして其坂戸部落とは東北本線新田駅の直ぐ東北方、白鳥で有名な伊豆沼の東岸の地域であります。子松神社はこの地域の鎭守社であったのであります。 戦時中、昭和17年宮城県学務所社寺兵事課で発行された「宮城県神社要覧」には立派にこの子松神社が明記され、 祭神 豊受姫命 祭日旧9月15日 氏子350戸 総代三名社掌石川栄之亟とあります。 然るに戦後県神社庁で刊行された県神社職名簿には、子松神社の社名も石川社掌の名前も見当たりません。 私も物好きな性分なので、石川氏宛に書状を出しこのことを照会しました処、同地駒形神社宮司干葉正志と申すお方から回答に接しました。 一、石川氏は老齢のため十数年前に死亡。 二、子松神社は明治初年に既に荒廃に帰し神霊を近傍の某神社に仮合祀し、終戦前まで其の名目を存し村社として祭典を執行して居たが、終戦後は宗教法人承認の手続きもせず廃社の有様となった。 三、旧境内地は今や開田されて全く旧態を留めず、出土品などもない。 以上の趣旨のお手紙をいただきました。 それから数年経って仙台の宮城県神社庁へ参りましたら、図らずも日野参事さんの机上に「子松神社再興云云」の文書が置かれてありました。そこで日野さんにおたづねしますと、之は登米郡迫町新田の相沢幸四郎氏(元校長、現公民館長)から提出された文書の由でしたので、早速相沢氏へ照会状を出し詳しく其の眞相を聞き質して見ました。同氏より回答あり、 「諸設備が整はないので仲々再興が困難である。取敢へず新田駅近傍の荒神社へ合祀して祭典を行って居る」とありました。 一方子松神社と申すお社が古川市新田(にいだ)字鹿島西83にもあります。 宮城県史25 風土記御用書出に 玉造郡新田村の條に 一、神社四ケ所 一、夜鳥(よがらす)鹿島宮 一、上宿熊野権現 一、上宿天満天神 一、夜鳥(よがらす)天照大神 とあって、子松神社の御社名が見当たりません。 又、前記宮城県神社要覧を見ますと、 玉造郡東大崎村の條に 村社子松神社 祭神 1.武甕槌命 2.家津御子命 佐弊那岐命 石神 3.菅原道眞 4.天照皇大神 大國主命 事代主命 以上八柱の神を奉祀して居ります。 (注)1、鹿鳥神 2、熊野神 3、天満天神 4、天照大神 右の御祭神中四柱までが前記風土記所載の神社祭神に相当して居るのであります。 そこで私は安永2年(1772年・198年前)書出の(風土記)当時の四社が後世に至って合併せられ、子松神社と改称したのではないかとの疑問を抱き、早速大先輩の岩出山町下野目の多田武彦老宮司へ照会しましたところ、 一、東大崎新田の子松神社は元々からの子松神社ではない。従って延喜式でもない。往年仙台東照宮の高崎多計志先生もかく云って居られた。 二、明治初年に新田村々内の四神社を合併した際、新田村に困んで登米郡新田村の子松神社になぞらへて、子松神社と改称したまでである。 と御回答に接し、初めて年来の疑問がここに氷解したのであります。 次に「新田の柵」について 私は元来浅学寡聞殊に考古学に関しては殆ど無知の者ですが、実は私の奉仕して居る大崎八幡神社の境内外から、奈良朝から平安初期にかけて1100、1200年前の古瓦-重■蓮花文鐙瓦といふものが出土発掘されます。之を最初に鑑定された方は、昭和8−11年頃、当時東北大の講師であられた内藤政恒先生(日向延岡藩主の後裔、子爵)で其後涌谷の佐々木敏雄先生、当時田尻町大貫診療所であった興野義一先生、東北大の伊東信雄教授、高橋富雄教授、東北学院大の加藤助教授などの考古学の諸大家が次々に来訪され、この古瓦の鑑定と当地域の地形の推測から学界多年の懸案であった「新田の柵」の所在が当大崎八幡神社の境内を中心とした丘陵地帯であることは間違いがないとの結論に達したといふことであります。 就中高橋富雄教授の近著「蝦夷」日本歴史叢書(2)吉川弘文館刊行)に於て実地調査の結果を詳細に記述されて居ります。 尚明治、大正の有名な歴史地理学者であられた、吉田東伍博士は「大日本地名辞書」の中に「子松神社」と我が八幡の両隣部落の小松に在った眞言宗秀嶋山小松寺(明治初年廃寺)と結付け、更に延喜式内社子松神社の最初の鎭座地を現大崎八幡神社の境内外の地域に推定せられて居るのであります。 又今昔物語(平安朝末期集録)巻十五本朝付佛法の中に「陸奥國小松寺僧玄海往生語」の初に 「今は昔、陸奥國新田の郡に小松寺と云ふ寺有り、云々」と記されてあります。 この小松寺といふのは正しく田尻町小松に在った寺ではないでせうか。 之を以て之を見れば即ち新田と子松神社或は小松寺とは密接不可分の関係があるやうに考へられるではありませんか。 そこで私は次のやうな愚測を試みるものであります。 それは、子松神社乃至小松寺は「新田の柵」の守護神又は守護佛であり、「新田の柵」が聖武天皇の天平9年737年・1234年前に現大崎八幡神社境内を中心とする地点に陸奥の國府多賀城の出先機関又蝦夷対策の前衛拠点として設置せられ其の守護神(佛)として子松神社若しくは小松寺が八幡又は小松に奉祀されたが、年所を経るに従って朝廷の東北経営が進展して行くにつれ皇威に反抗する蝦夷が漸次北方へ後退したため、八幡に在った「新田の柵」はもはや其の存在価値を失ひ、次第に廃絶の形となり、従って其の守護神たる子松神社を他へ移転するに至ったと見るのは妥当ではないでせうか。 醍醐天皇の延長5年(925年・1044年前)延喜式撰上のころまで子松神社が他へ遷座したか否かは判明しない。何故なれば、 延喜式巻十神祇十神名下に 新田郡一座(小) 子松神社 とのみあって鎭座地を明記されて居ない。 大日本史、神紙志の記載は江戸時代の当時の現状を附註したものであることは申すまでもありません。従って新田村の坂戸に何時奉遷されたかについては明確に知る由もありません。 とにかく子松神社の最初の鎭座地を八幡か小松に推考することは必ずしも不当ではないかと存ぜられます。 従って古川市東大崎の新田に在る子松神社の社号は明治初年以降の名称で問題外であることは間達いありません。 然して其後前九年の役の際、鎭守府将軍兼陸奥守源頼義、安倍氏追討の勅命を奉じて其子義家と共に下向した時戦勝祈願のため天喜5年(1057年・916年前)石清水八幡大神をこの由緒ある「新田の柵」の跡地に勧請し降って室町の初正平11年(1358年・615年前)義家の後裔大崎家兼足利将軍の命を承け奥羽二州の探題として下向し、大崎五郡の地を領するや特に本社を崇敬し社殿を再興し、大崎八幡と尊称し大崎氏の氏神大崎五郡の総鎭護と敬めたのであります。 天正18年大崎氏亡び其の旧領伊達氏の有となるや、藩祖貞山公政宗、亦本社を尊崇し先づ玉造郡岩出山へ=同地八幡神社の起源更に慶長9年仙台城を築城するや、仙台城下國分荒巻へ勤請した。これ現八幡町の大崎八幡神社の濫觴(物事のはじまり起原)なることは既に皆様のあまねく御承知のことと存じます。 最初に至り考古学者の諸先生の研究発表に依り、当神社の境内外が「新田の柵」の跡地(旧蹟)たることが知れ渡るや、方々の大学、高校の先生や男女学生生徒たちをはじめ考古学研究者の人達が当社に訪れるやうになりました。 元来考古学に全然無知な私にとって全く答辮に困る有様であります。幸に私が四十年前から蒐集して置きました古瓦-布目瓦等又土器などの破片がありますし、又諸先生の研究発表された文献、拓本、写真などの資料類を所持して居りますので説明の代りにそれを取出してお目にかけて居るのであります。 以上甚だ拙い文章ですが、何卒欺道の大家の方々の忌憚なき御批判御叱正を虚心坦懐お願ひ致す次第であります。 昭和46年8月大吉 宮司 豊原誠一 |
大崎八幡神社 元来、此の境内外の地は、奈良朝聖武天皇の御宇、天平9年(737年)設置された「新田の柵」の跡地で、当時の古瓦数種出土する。(東北大高橋富雄教授著「蝦夷」参照)。又延喜式内社新田郡子松神社(即ち新田の柵の守護神)の旧所在地とも云われている。(吉田東伍博士著大日本地名辞書参照)朝廷の東北蝦夷対策の進展に伴い、新田の柵は何時しか廃絶の運命となり、従って其の守護神たる子松神社も亦他へ移転するの巳むなきに至った。現登米郡迫町坂戸に鎮座した子松神社は即ちこれである。爾後約300年を経て後冷泉天皇の御宇、源頼義、鎮守府将軍兼陸奥守として安倍氏の乱平定の勅命を奉じ、子義家と共に下向し、天喜5年(1057年)天狗ヶ岡(現大崎市田尻八幡北部栗原市境に在る丘陵)に宿陣し、陣頭に社壇を設け、石清水八幡を祭り、官軍の勝利を祈る。時に安倍貞任の叔父良照、小松の柵(田尻町西北部、北小松に在り)頑強に抵抗した。旱天累日、人馬飢渇大いに苦しむ。義家適一夜、八幡神影を夢む。早朝一卒、叢林の中に一泉源を得(今之を葦切清水と云う)飲用進むる者有り、是に至って官軍士気大いに揚り、進んで小松の柵を陥れ、北進して衣川鳥海厨川の諸柵を抜き、安倍氏悉く誅に伏した。是皆感応著しき神慮の然らしめる所となし、其の神護に依り賊軍悉く平定し、凱旋に際し、旧新田の柵の守護神たる子松神社の跡地に、石清水八幡を勧請し武具を納置した。之即ち当社の起源である。(当地と胆沢及び栗原の三ヶ所に勧請し毎社に武具を奉納した。三八幡と称される)。その後義家六代の孫斯波尾張守家氏初めて下総の国大崎郡を領し、氏を大崎氏改めた家氏四代の孫(義家九代の孫)伊豫の守の大崎家兼、将軍足利尊氏の命に依り、正平11年(1356年)奥羽二州を鎮定し、陸奥の守に任ぜられて下向するや、本社が其の遠祖義家の勧請にかかるを以て、正平16年社殿を再興し、祭式を復し、大崎家の氏神、其の封土大崎五郎の総鎮護と崇め、大崎八幡と尊称し奉った。其の後九代を経て左衛門督大崎義隆に至り、天正18年(1590年)小田原不参の罪を得、豊臣秀吉に滅ぼされ、其の旧領伊達氏の有に帰するや貞山公政宗亦本社を尊崇し、慶長5年(1600年)旧玉造郡岩出山に(現大崎市岩出山の八幡神社)更に同9年(1604年)仙台城下国分荒巻に奉遷した。(現仙台市の大崎八幡宮)而して本社は旧に依って再建せられ郡民の信仰いよいよ篤く明治5年3月郷社に列せられた。(宮城県庁所管「大崎八幡神社明細帳」「遠田郡誌」「田尻町史」「享保縁起集」富田広重著「名所古蹟を索ねて」中「大崎八幡濁酒の由来」等参照)。尚、維新前、本社の別当職は現東隣の一、新義真言宗智山派通木山寶積院八幡寺。又本社に附属したと見られる修験二け所あった。一、羽黒派白澤山萬宝院。二、羽黒派花嶋山光明院。萬宝院達道法印は、当社並びに八幡寺を兼務して寺子屋の師匠をしていたという。其の弟子達によって建てられた筆塚は現存している。其の子白旗東馬は初代の社司を勤めた。 宮城県神社庁 |