月山神社
がっさんじんじや 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】和我叡登挙神社 陸奥国 膽澤郡鎮座

   【現社名】月山神社
   【住所】岩手県奥州市衣川区松下64番地
       北緯39度0分27秒,東経141度5分4秒
   【祭神】月讀尊
   【例祭】10月28日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】嘉祥3年(850)慈覚大師によって創祀
       長治2年(1105)藤原清衡再興
       文明17年(1485)田野勘四郎社殿改築
       元和3年(1617)火災
       明治4年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

嘉祥3年(850)和我叡登挙神社(延喜式内社、山頂奇石)の地に、慈覚大師によって月読命を祀る月山権現社が勧請され、大師自作の阿弥陀如来像も安置されたのが始まりとされている。
和我叡登挙神社は月山神社の本殿の前にある山頂の奇石を御神体とする。


月山神社

当社は、嘉祥3年(850)和我叡登挙神社(延喜式内社、山頂奇石)の地に、慈覚大師によって月読命を祀る月山権現社が勧請され、大師自作の阿弥陀如来像も安置されたのが始まりとされている。長治2年(1105)藤原清衡が堀河、鳥羽両帝の勅を奉じて再興し、中尊寺奥院として大いに栄え、その後、文明17年(1485)には田野勘四郎によって社殿が改築されたという。元和3年(1617)火災に遭い社殿、宝庫が焼失し、それまでの古文書は悉く灰燼に帰した。等々、各種の古記録に伝えられている。
 しかし、宝物として一、神鏡1面、一、仏像3体、一、銅盤円形掛物(掛仏)13面の17点が近世まで当社にあったと記されているが、残念ながら現時点では確認されていない。唯一の紀年銘資料としては万冶3年(1660)の鋳銅鰐口(市指定有形文化財・工芸品)がある。また当社が中尊寺の奥院として同寺所属の上西谷坊が長く当地に居住して別当職を勤めていたことに関連する文化11年(1814)の文書を市史第4巻の604貢に収戴してある。
 また、当社は明治4年、上衣川の磐神社と共に、下衣川の村社となり広く崇敬され、例祭日に行われる初宮参り(七ツ子参り)という古来からの習慣は、現在なお守られている。なお、当社のある月山は女人禁制とされ、麓の荒沢神社の参詣までは許されたが、それより奥へ登ることはできなかったという。
月山神社拝殿と奥の院との間に、和我叡登挙神社(わかえとのじんじゃ)奇石あり
月山神社の本殿の前にある山頂の奇石を御神体とする延喜式内奥州一百坐の内胆沢郡七坐の一である。
 安倍頼時の時代、当社を守護神として当山の北麓一帯に本據を構えたとされ、当山の南東麓が前九年の役時点における衣河関(字松下54−3)であったとされる。安倍時代の例祭には盛大な流鏑馬が行われ、その馬場跡(字平30-表95付近)は現在も伝承されている。また中世において葛西時代の当初、衣川の地に配された土屋阿波(衣深川大鞍館に居住、150石)の裔、禰宜土谷相模は当社の神主であり、禰宜塚(字寺袋、水害で破壊され、今その姿はない)として祀られて尊敬されていたと伝えられている。しかし嘉祥三年(850)月山権現がこの地に勧請され、その後その月山権現は中尊寺の奥院として栄え、しかも当社には古来社殿を設けない習慣があったため次第に忘れられる存在となったようである。

岩手県神社庁




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