本殿の後には御神体と思われる三箇の大石が安置されている。 古くからの霊石信仰に基く社である。 遠流志別石神社の「石」は「君」の誤表記であるとして、『続紀』にある陸奥の蝦夷である邑良志別君 宇蘇弥奈(おらしべのきみ うそみな、生没年不詳)を祖神として祀っているとする説がある。 |
遠流志別石神社 遠流志別石神社縁起 遠流志別石神社は登米郡石越町北郷字中澤に鎮座し縁起式内社栗原七座の一つと言われ古くから石神様と呼ばれ広範囲に亘って篤く崇拝されて来た神社である 古書によると景行天皇の皇子日本武尊東征に際し伊勢の御姨倭姫命が天照皇大神より伝わる明玉を尊に「之を頭上に戴き赴くべし」と授けたやがて東国を平定するに及び明玉は霊石と化したのでこれを祀ったこの霊石が子石を産み五十の数に別れた故にこの地を石子石の里と名付け後に石越となったこれが石神社の起りとされ石越の名の由来よなっている これとは別に神社東方の丘から産出する礫石が風雨に晒される事により小石塊を周囲に散らしあたかも石が子を産んだ様相を呈するのを見て自然崇拝であった当時の住民はこれを神として祀ったものと推察されるという説もある 遠流志別=オルシベツ=とはアイヌ語で「大きな川の流れの側」を意味している 古代石越丘陵の北面一帯は大河の如く中田方面に向けて蛇行していたものと思われその流れの側にある富崎周辺の地名になったと想定される その根拠として続日本紀巻七に霊亀元年10月陸奥蝦夷のオルシベツの君宇蘇弥奈(遠見邑=富崎=に住む住民の長で爵位第三等)が 香河村(岩手県胆沢町か)に移り住むことを願い出て許されたという記載がある宇蘇弥奈が移住した後も遠流志別石神社として信仰されて来たものであろう 文治年中社殿荒廃し伝承の文書も失いただ石神明神と称して来たが安永年中仙台藩儒者田辺希元の調査に依り遠流志別石神社と判明した天明6年中澤の住人小野寺新右衛門社殿を再興し寛政7年社地を献納文化元年拝殿を造営した天保11年正一位に明治6年郷社に列せられたが昭和21年社格は廃止され今日に至っているここに改めて縁起のあらましを記して後の世に伝えんとするものである 社頭石碑 |
遠流志別石神社 鎮座地は、旧栗原郡三迫高倉荘石越村といい、佐沼の北6キロ、南は迫川流れ、北は磐井郡流郷に境する。「縁起」によれば、景行天皇40年、日本武尊東征の途次伊勢神宮に社参の砌り、倭媛命より明玉を授けられ、「頭上に戴きて赴むくべし必ず勝利を得ん」と申された。尊は着陣の地に之を埋め神祠を建て斎き祀ったという。後、明玉は霊石と化し年々小石を産む。よって里人は石神、明神石と称え崇め、村名を石小石村といった。延喜式内社であり栗原郡七座の一である。和銅2年(709)鎮東将軍巨勢麻呂蝦夷征伐の際、近江国栗田郡健部氏従事してこの地に来て本社を再興し神主となり後世に及ぶが、文治5年藤原泰衡滅亡し社域また荒廃した。然に安永年中田辺希元の調査によって式内社であることを知り、天明6年肝入小野寺新右衛門宮社を再興し天保11年3月には正1位の神階授った。明治6年6月郷社列格、同40年3月供進社に指定された。 宮城県神社庁 |