香取御児神社
かとりみこじんじゃ
鹿島神社 に合祀
所在地 社名

















   【延喜式神名帳】香取御児神社 陸奥国 栗原郡鎮座

   【現社名】鹿島神社
   【住所】宮城県栗原市築館黒瀬後畑64
       北緯38度46分31秒、東経141度1分19秒
   【祭神】武甕槌命 (合祀)経津主命
   【例祭】3月10日 春季例大祭 9月19日 秋季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】景行天皇の時常陸鹿島より勧請
       元文2年(1737)別当千手院源光が再建
       明治8年10月村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】往古現社地南方1Kmほどの三峯山という小山に鎮座
        年代不詳鹿島神社に合祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿

   【境内社】
   【旧別当】白鹿山神宮寺

鹿島神社の相殿の神として鎮座。
往古現社地南方1Kmほどの三峯山という小山に鎮座していたという。三峯山の地は現在は開墾され田圃に化してしまった。


鹿島神社の由来

鹿島社
香取御児神社
勧請
鹿島明神は東夷正伐の後、此の地に入植した人々が常陸の鹿島より当所に御勧請したと伝えられる。
香取御児神社については、式内社として延喜式神名帳の栗原郡七社のうちに「香取御児神社」と記されている古社である。
御勧請については、人皇12代景行天皇の御代に勧請と伝えられている。延喜式927年に制定されており香取社として当社は最も北端にある式内社であった。
鹿島社は武の神で、祭神はタケミカツチの命
香取社は剣の神で、祭神はフツヌシの神である。
鹿島・香取の祭神は農耕の神としても農民から篤く信仰されている。

社頭掲示板



鹿島神社

安永風土記(1778年)に、第12代景行天皇(71〜130年)の時、奥州夷賊御退治の為、常州鹿嶋より勧請と伝えられる。と記載され、香取御子御児神社は、延喜式内社(905年神名帳)であり、相殿に奉祭されていると記載されている。別当寺である白鹿山神宮寺は、元和5年(1619年)本山派観音院により、開院され、神社に仕えることになる。本山派三世千手院源光は、享保8年(1723年)境内に石碑建立し、享保年間(1730年代)に祝融の災の社殿を、元文2年(1737年)再建する。その棟札も現存する。文久4年(1864年)、村中安全を祈った白鹿山の御札が現存する。氏子古老の言い伝えに、神社は向い山(茶臼館−館主黒瀬帯刀氏)より現鎮座地に遷座されたと言う。又、向い山から旧栗駒町上黒瀬の地に遷座後、現鎮座地に遷座されたとも伝えられている。年代は、伝わっていない。現在の鎮座地境内からは、凡そ西暦200年〜600年位の古墳時代に作成されたとみられる祭祀用土器台脚の破片や灯明皿土器が発掘されている。黒瀬の昔話に語り継がれている「笠松と南部の殿様」の話の中の「長者原」は、現在の鎮座地より西側一帯であるが、平安時代(西暦1000年位)の外貨が多数発掘されている。

宮城県神社庁



鹿島神社

祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
祭日 旧3月10日、9月19日
江戸期には、右祭日は旧暦の3月10日と9月30日で9月30日の 祭日には岩ヶ崎城主中村日向様から武頭一人、足軽が十人が来村し例年 警固に当ったという。
構造、形式及び面積
本殿、切妻形流造、二間×二間、幣殿、一、五間×二間。 拝殿、入母屋型、四間×二間、面積、2750坪。
鳥居
文化13年3月建立(1816年)
鳥居の石柱は、村の人達が岩ヶ崎から運搬経路上の村々の人達の協 力を得て、転(ころ)を使って当所まで運んで来たとのことです。
神木
 杉一本、初代は枯死し、切株の跡がある。

社頭掲示板



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