御賀八幡神社
おんがはちまんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】和我神社 陸奥国 栗原郡鎮座

   【現社名】御賀八幡神社
   【住所】宮城県栗原市若柳有賀八幡82
       北緯38度48分19秒、東経141度6分20秒
   【祭神】応神天皇 (配祀)素戔嗚命 菅原道真
   【例祭】8月15日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       康平5年(1062)源頼義義家父子が勧請と伝

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

『大日本地名辞書』は吾妻鏡の若次郎・若九郎による三迫合戦の記事により和我神社も三迫に在るものと推定し、若椀町の御賀八幡神社かと推測しているが、確証は無い。
本殿と拝殿が離れて建立されており別の神社が並立しているように見える。


御賀八幡宮

由緒
前九年の役康平5年12月源頼義義家父子は胆沢から京への帰途斐城で越年八幡太郎義家は当地で25歳の新年を迎えた村人は年祝に餅や団子を献上義家は此里を有賀と名付けた出立に際し清原成驍ノ男山八幡の神社を建立させ御賀宮と称し弓矢を奉納更に天台宗普養教寺を建立成隆を別当とし祭田を増り宮の下と称した。
後伊賀守清原俊隆は明徳元年大崎氏の命により大昌院を開設永和の頃から荒廃したが渋谷氏により改修明治に至り村社となる。
御祭神 主神 応神天皇
    配神 須佐之男命 菅原道真
祭日 旧3月10日 旧8月15日
丈北財
 矢立の杉 聖徳太子像奉讃歌
 藤原通理長親国豊の奉納歌
社務所

社頭掲示板



御賀八幡神社

源頼義父子出陣の際、清原成隆、中原清房、藤原正弘等に命じて、八幡の神輿をかつがせ、賊の退散を祈願させた。軍を動かす毎に神輿を移し、安置した場所に勧請して社を建てたが、この社もそのうちの一社で、安部貞任誅伐の際、康平5年(西暦1062年)の12月凱旋して此の地に軍をとどめ、翌年正月斐(あや)城で諸将士の年賀を受けた。それから御賀八幡と称するようになったという。有賀という地名のいわれも、これにによると伝えられる。正月17日、此地を出発するに当り、清原成隆に命じて此社にかしずかせ、天台宗寺院本孝山普養教寺を建て別当とした。又、祭田を寄附し「宮の下」と称したと伝える。境内に、源義家が、弓矢とたてかけたと伝えられる弓立、矢立の杉があったが、現在、矢立の杉(二代目)が残っている。現宮司の清原昌雄は、成隆の子孫であるという。社蔵記録、封内風土記に「成隆第三子清民部少輔清原秀隆、崇徳帝の大治2年(西暦1127年)丁末3月神主となる。普養教寺は後円融帝の永和(西暦1375年〜1378年)以来荒廃す。秀隆十世孫清伊賀守業隆第二子伊賀守俊隆なるもの、始めて修験道に入り、三僧祗権大僧都法印と号し、普養教寺遺跡跡に移り、別当となりて以来連綿今に至る。源義家弓矢を社頭に献じ、又天正年中邑主葛西家臣渋谷式部本社を再興して崇敬を致す。」となる。明治7年村社となる。明治44年10月八坂神社を、更に翌月北野神社を合祀した。

宮城県神社庁



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