武烈天皇東征行幸の際の従者睦氏の後裔和我氏が天皇の御霊を奉齋したことに創まるという。ただし武烈紀には東征行幸の記載はない。 元来はこの土着氏族和我氏の祀る神社であつたと思われる。 |
和我神社 『延喜式内社に記載されている栗原七社の一社である。小泊瀬稚鷦鷯命が東北行幸の際、海辺を経て牡鹿桃生を過ぎ、此の地萩沢加倉大屋敷城戸に上陸され、此の地に暫く駐泊され北征されたと言う伝説がある(そして用いられた舟を繋いだ老杉は樹齢1500年、明治30年枯損する)。帝の従者は睦氏で後裔は久我氏と和我氏の二姓となる。久我氏は旧姫松村に居住し帝崩御の際陵を祀り、和我氏は城戸に居住し帝の為に址祠を祀る。これが社名の起こりであるという。「続日本紀」に、天平9年(737年)和我君計安塁は東征の夷敵を鎮めた旨の記載がある。この功により此の地の開拓に就いたのかもしれない。別名「新山権現」と称えられ、前記の老杉等の記述は封内風土木や郡誌に見える。明治8年5月村社に列す。明治35年本殿改築。明治40年3月幣帛供進社に指定。昭和11年拝殿修築。氏子の崇敬篤く祭礼欠かさず、茲に巷の異説を排し永久に後世に伝える』以上『和我神社碑』(昭和12年6月20日建立)より抜粋。 宮城県神社庁 |