駒形根神社
こまがたねじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】駒形根神社 陸奥国 栗原郡鎮座
          (奥宮)駒形根神社奥宮

   【現社名】駒形根神社
   【住所】宮城県栗原市栗駒沼倉一ノ宮11
       北緯38度52分17秒、東経140度56分45秒
   【祭神】大日霊貴尊 天常立尊 国常立尊 吾勝尊
       天津彦番迩迩藝尊 神日本磐余彦火火出見尊
       (合祀)日本武尊 素戔嗚尊 正哉吾勝速日命 天櫛明玉命 軻遇突智尊
       保食尊 大山祇尊 木花咲耶姫命 天手力男尊 誉田別尊

   【例祭】4月29日 春季例祭 9月29日 秋季例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】日本武尊東夷征伐の際創祀
       延暦20年(801)坂上田村麿奥羽鎮定を祈願
       仁寿元年(841)神階正五位
       貞観4年(862)6月18日従四位下「三代実録」
       嘉祥3年(900)駒形山大昼寺建立
       元文4年(1739)仏教から分離
       寛保3年(1743)桜町天皇より御宣命と御宸筆の扁額を賜る
       明治4年11月郷社
       同40年3月神饌幣帛料供進社指定
       昭和3年奥宮建立
       昭和62年山頂に奥宮再建

   【関係氏族】大伴氏
   【鎮座地】現在地は「里宮」とする伝承があり
        いつの時代かに現在地に遷座と伝わるが、元の場所、移転時期不詳

   【祭祀対象】栗駒山を神体山とする山岳信仰
   【祭祀】江戸時代は「日宮(ひるみや)・大日社・駒形社」と称していた
   【HP】 駒形根神社
   【参考HP】 駒形根神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿

   【境内社】駒形根神社奥宮・開羽神社・招魂社

栗駒山(標高1628m)頂を「嶽宮」と称し、沼倉鎮座の社殿を「里宮」又は「麓ノ宮」と称している。
本来は栗駒山を神体山とする山岳信仰に由来する神社であろう。
日本武尊東夷征伐の際、大日霊尊・天常立尊・國常立尋・吾勝尊・天津彦番能瓊々藝尊・神日本磐余彦尊の六柱の神々を駒形山(栗駒山)頂大日嶽に齋き祀り、東國鎭護の祈請をせるに始まる。
宮司の鈴杵氏は、大伴武日命の子の阿良比を祖と伝えて大伴姓を称し、約70代にわたって社を管理している。


由緒

古来、日宮(ひるみや)・大日社・駒形社と称し、俗にお駒様と親しまれている。社記に『日本武尊御東征の折、大日ルメ尊(おおひるめのみこと)外五柱の主神に祈願創建』奥羽鎮護の一ノ宮として駒形嶽(栗駒山の古名)を奥宮、沼倉の地に里宮を祀ったと誌(しる)され、大古より日宮と呼称。
日は火に通じ火山を意味し、私達の祖先が山のもつ神秘性と霊威に感動する姿がしのばれ、山岳信仰を母胎に自然崇拝・鎮魂の祭礼が起こり、神社を形成してきた。
大和朝廷の蝦夷平定に伴い社勢隆盛。延暦20年(801)坂上田村麿奥羽鎮定を祈願。四大門(東は一関三島・西は花山・南は尾松大鳥・北は秋田仙北)を建て、自ら駒形根大明神の大額奉献。次いで仁寿元年(841)神階正五位贈、清和天皇貞観元年(849)勅使下向正一位を贈らる。
延喜式(901)神名帳登載。後、源氏、平泉藤原氏崇敬篤く、武具祭田献納。社殿壮大。四大宮司三十祢宜六十社家を擁し、奥羽総鎮守として信仰を集め、お駒精進講・お駒講・駒形講等の駒形信仰の源流となった。嘉祥3年(900)駒形山大昼寺(くぎょうざんだいちゅうじ)建立。やがて奥羽一帯修験の地となり神仏混淆に入る。839年後の元文四年(1739)仏教から分離、御巡幸始まる。寛保3年(1743)桜町天皇より御宣命と御宸筆の扁額を賜る。明治4年郷社に列する。
昭和3年建立の奥宮が朽ちて50年。昭和62年、山頂に奥宮再建。歴史に埋もれていた当神社が多くの人々に見直され、農畜の神・家内安全商売繁昌の神、特に栗駒の山名と残雪の駒姿、大昔から馬産地であった馬の信仰が根強く残り、現代の車社会で交通安全の神としても効験著しいと脚光を浴びることとなってきた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




駒形根神社

駒形根神社のご宝物については、安永の風土記や、栗原郡誌にも述べられているが、「古剣」といわれる物は、剣ではなくて非常に珍しい「矛」である。古代の武器で、後世の槍の穂の様なもので、この矛が秘蔵されている。その他、駒形根大明神の書は、日本の神主の長官吉田兼雄の書、勅宣の二字は櫻町天皇の御親筆、日宮の二字は天文博士阿部泰邦の筆、狩野永真法眼の龍の画幅、この外関白近衛基ひろ、下冷泉為経、久我惟道等有名公卿の和歌の色紙、六花仙の短冊という実に多彩な宝物である。この外にも、古い時代には珍しい鉄製の懸佛がある。大日如来を鋳た大小七個の懸佛は鋳造月日こそ刻銘されていないが、鉄を手に入れる事の非常に困難な時代に、これ等を手に入れて鋳造したという事を考えると、其の信仰の程が偲ばれる。
この懸佛の外、神社の御神体とも関連する、御神馬二体の鉄製のものが秘蔵されている。

栗駒町教育委員会発行『栗駒町の文化財』



駒形根神社

宮城県指定無形民俗文化財
駒形根神社の巡幸神事
古来東奥鎮護の一の宮として栗駒山頂に奥宮を沼倉一の宮に里宮を祀る。
日本武尊御東征の折大日霊尊外六柱の主神に祈願創建。日宮と称し延喜式神名帳に登載。
東奥186邑の総鎮守。後桓武天皇延暦年間
坂上田村麿東征祈願大勝を得て駒形根大明神の大額奉献、清和天皇貞観元年(849)一勅使恵美朝臣下向。
正一位勅宣を腸わる。
隆って元文5年(1740)総代千葉孫左衛門上洛。
寛保3年(1743)櫻町天皇御宣命拝受。以後祭礼には御宣命奉特の行列を模して神輿渡御を行ない明和3年(1766)神道管領吉田家御下渡祭式の法により勅使下向の古事を偲び日ご巡幸の諸式が定まって今日に至る。ご巡幸の供奉割は氏子の家系によって定まり、忌事をもつ家は参加しない定めである。
行列は陣笠騎馬に続いて稚児・乙女・弓・幡・麻上下古人諸役に警護され神輿・御宣命を中心とする大行列が一日中古式豊かにいかめしく練り歩くのである。
平成7年8月25日、宮城県指定無形民俗文化財(風俗習慣)に指定された。
平成7年9月 栗駒町教育委員会
宮城県文化財保護協会

社頭掲示板



駒形根神社

勅宣日宮駒形根神社 由緒
日本武尊御東征の折 奥羽鎮護の一ノ宮として祈願創建 駒形嶽山山頂に奥宮を東麓沼倉一ノ宮の地に里宮を祀る 延暦20年坂上田村麿四大門と駒形根大明神の大額奉献 清和天皇貞観元年神階正一位 勅使下向勅宣を賜る 奥羽総鎮守 延喜式神名帳登載 四大宮司三十禰宜六十社家を容し 後 源頼義 義家及び平泉藤原三代崇敬篤く源頼朝奥羽鎮護を祈願 葛西氏伊達氏崇奉 嘉祥3年駒形山大昼寺建立 霊山修験の地となる 元文4年櫻町天皇勅許にて神仏分離 寛保3年御宣命拝受明治4年郷社に列する 昭和3年奥宮建立 同62年平泉町吉田千秋氏奥宮奉納 勅宣日宮駒形根神社奉賛會改築施工奉献する

社頭掲示板



駒形根神社の由緒書

古来、日宮・大日社・駒形社と称し、俗にお駒様と親しまれている。
社記に『日本武尊御東征の折、天照大神外五柱の主神に祈願創建』奥羽鎮護の一ノ宮として駒形嶽(栗駒山の古名)を奥宮、沼倉の地に里宮を祀ったと誌され、太古より日宮と呼称。
大和朝廷蝦夷平定に伴い社勢隆盛。宴暦20年(801)坂上田村麻呂奥羽鎮定を祈願。
四大門(東一関三島、西は花山、南は尾松大鳥、北は秋田仙北)を建て、自ら駒形根大明神の大額奉献。次いで仁寿元年(841)神階正五位賜、清和天皇貞観元年(849)勅使下向正一位賜称号勅宣日宮が資料に散見し、延喜式(901)神名帳登載。後、源氏、平泉藤原氏崇敬篤く武具祭田献納。
社殿壮大。四大宮司三十禰宜六十社家を容し、奥羽総鎮守として信仰を集めお駒精進講の源流となった。
嘉祥3年(900)駒形山大昼寺建立。やがて奥羽一帯修験の地となり神仏混こうに入る。
元文4年(1739)仏教から分離、ご巡幸始まる。寛保3年(1743)桜町天皇より御宣命と御しん筆の扁額を賜る。
また伝承によるといつの世にか、現在の場所に里宮が移されたというが、古神社跡はいまだ幻の神社となっている。

公式HP



駒形根神社

古来、日宮・大日社・駒形社と称し、俗にお駒様と親しまれている。社記に『日本武尊御東征の折、大日?尊外五柱の主神に祈願創建』奥羽鎮護の一ノ宮として駒形嶽(栗駒山の古名)を奥宮、沼倉の地に里宮を祀ったと誌され、太古より日宮と呼称。日は火に通じ火山を意味し、私達の祖先が山のもつ神秘性と霊威に感動する姿が偲ばれ、山岳信仰を母胎に自然崇拝・鎮魂の祭礼が起こり、神社を形成してきた。大和朝廷の蝦夷平定に伴い社勢隆盛。延暦20年(801)坂上田村麿奥羽鎮定を祈願。四大門(東は一関三島・西は花山・南は尾松大鳥・北は秋田仙北)を建て、自ら駒形根大明神の大額奉献。次いで仁寿元年(851)神階正五位贈、清和天皇貞観元年(859)勅使下向正一位贈称号賜勅宣日宮が史料に散見し、延喜式(901〜)神名帳登載。後、源氏、平泉藤原氏崇敬篤く武具祭田献納。社殿壮大。四大宮司三十禰宜六十社家を容し、奥羽総鎮守として信仰を集め(親蹟聞老志)、お駒精進講・お駒講・駒形講等の駒形信仰の源流となった。嘉祥3年(850)駒形山大昼寺建立。やがて奥羽一帯修験の地となり神仏混淆に入る。889年後の元文4年(1739)仏教から分離、御巡幸始まる。寛保3年(1743)桜町天皇より御宣命と御宸筆の扁額を賜る。明治4年郷社に列する。昭和3年建立の奥宮が朽ちて50年。昭和62年、山頂に奥宮再建。歴史に埋もれていた当神社が多くの人々に見直され、農畜の神。家内安全商売繁昌の神。特に、栗駒の山名と残雪の駒姿。大昔から馬産地であった馬の信仰が根強く残り、現代の車社会で交通安全の神としても効験著しいと脚光を浴びることとなった。

宮城県神社庁



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