雄鋭神社
おどのじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】雄鋭神社 陸奥国 栗原郡鎮座

   【現社名】雄鋭神社
   【住所】宮城県栗原市栗駒稲屋敷高松51
       北緯38度49分55秒、東経140度56分50秒
   【祭神】速須佐之男命 (合祀)軻遇突智命
   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】景行天皇時日本武尊東夷征伐の際勧請
       大同2年(807)坂上田村麻呂再建
       永享年間(1429-41)別当寺炎焼
       天正年中(1573−92)兵乱で別当寺退転
       慶長年間(1596−1615)現在地に遷座
       明治7年3月村社
       昭和7年12月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧社地は現在地の西北方約2Kmの天王山中
        慶長年間(1596−1615)現在地に遷座

   【祭祀対象】大土ケ森580.3mを神体山とする
   【祭祀】江戸時代は「八所権現」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神饌所・社務所

   【境内社】祖霊社・保食神社・箱根神社・九ノ戸神社
   【旧別当】天台宗春日山高松寺

集落の一角。小さな尾根の上に鎮座する慶長年間に現地に遷。北西500mに奥宮あり、元の社地という。
毎年春秋に高松川に上る鱒と鮭は、雄鋭神社の御使魚として、土地の人々は漁をしない風習であった。
別当寺として天台宗春日山高松寺があり、社人七人坊舎二十四字を数えたが、永享年間(1429-41)一山炎焼し、更に天正年中(1573−92)の兵乱の爲に退転するに至つた。慶長年間(1596−1615)に現在地に遷座してこれを里宮と称し、旧社を奥の院と称した。


雄鋭神社

慶長年間、現在地に移り里宮と称し、現在の社殿から北西500mの元の地を奥の院と称している。

社頭掲示板



雄鋭神社

本社は日本武尊東征の砌、勧請と伝えし(社蔵文書)、往古現鎮座地の西方500mの高地天王山中に鎮座せしが後円融天皇の永和年中兵乱の為神殿並に社家坊舎は勿論古記録一切を焼失する。天正18年には國内戦乱遂に退転するに至る(封内風土記)。慶長年中峯傳への現在地に遷座し旧殿地を奥の院とし新殿を里宮と称した(社蔵文書)。古く本社に末社と称するもの7社あり。本社と共にこれを八所権現又は高松権現と称す(観迹聞老志)封内風土記)また一書には大同2年坂上田村麻呂は別当春日山大勝院高松寺社人七家、坊舎二十四宇を建立、神領を寄進したが宮田寄進田などの名称を遺すのもとなったと記している(封内風土記)。延喜の制國幣小社に班す(延喜式)。安永5年以来宮崎、星、伊藤、道家、煤孫、樋口等各藩士の崇敬篤く社領の寄納があった。別当高松寺は明治維新の際廃す(社蔵文書)。明治4年郷社に列せられたが県令改正のため同7年3月村社となり昭和7年12月再び郷社に列格された(社蔵文書)。今忘れさられようとしているが本神社は大土ケ森580.3mを神体山とする。栗原郡延喜式内社七座の内の神社である。大土森の名称の山が郡内に2ヶ所あり、紛雑を考慮して明治の図面作製の時旧長崎村の大土森336.9mは従前通りとし本神社神体山は大土ケ森と変更された。日頃氏子の方々は本神社を雄鋭の神社と称している。雄鋭と大土は同音である。旧社地名は正式には天王山であり又普通御巓山(御殿山)と呼んでいる。天王山の地名は祭神須佐之男命の神名による。八坂神社を天王様と称するなど八坂神社の祭神は本神社と同様である。今旧社地は大変不便な所と思われるが古代に於ては旧文字村に通じる。もっとも安全な道筋であったと考へられるし、現在旧鴬沢から旧文字村に至る道路は二迫川上流に向って右側の中山地区はこの二迫川に山がせり出て危険な所なので到底道は無かったものと想像出来る。ここの地名は深渡戸でありそれを物語っている。オドは本来峯とか山など鋭く尖った高い状を意味し外にウド、オード、オイドなどいづれも尖った円錐形の山容を有する山である。又、メド、ヒド、ホド、ヘドの語はオド等の語の反対語で女を表わしオドは男を表現する。栗原郡旧地考に大土ケ森を雄山と称している。この大土ケ森は見る位置によってその山容を変へる南方面位置見た場合はさして気にする山の姿ではない。見る位置を東方に移すと三角形の秀麗なそして尖鋭な山容となる。別名文字富士と呼ばれている。古代より他の山々より突兀し秀麗な山の姿は集落民による信仰の対象となりやがてこれを母胎として、そこに神社信仰が発生して今日に及んでいる例はきわめて多い。こうした山容は山そのものを神として集落民が朝夕に仰ぐ山にやがて自分達が行く祖霊の鎮まる山へと求められ原始神道を見る事が出来る。もっともこの大土ケ森を近々と拝する事の出来る位置が即ち天王山本神社創祀以来の旧社地である。旧社地自体も大土ケ森を彷彿させる三角形の山である。その真下に旧社地の礎石等を見る事が出来る。この山の向きは東向であり、その方向が氏子地域である。ここから見る大土ケ森は最も左右均等な一番の山容である。社地前方の傾斜に建造物のあった平坦に造られた場所が10ヶ所以上認められ池跡も2ヶ所ありよく庭園などに植栽される石菖蒲が茂っている。そして今も清水が流れている。もともと他からの勧請による創建の神社とは考えられない。こうした神体山を土台とした祖霊信仰の上に雄鋭神社の創祀があり神社の創建はこの地域に人々の生活が始まった其の時からと考へられる。從って祖霊の上に中央政権の北上に伴って記、書上に記載されている現祭神が併せ祀られたと見られる。これは多くの古い神社に言へる事であろう。善喜2年3月寄進の鰐口一器、陸奥長岡郡荒谷郷安養寺寛正3年鰐口一器など信仰範囲が安永書上書に見える。善喜の年号について誤記と言われて居り喜の語の年号は延喜1103年程前であり、寛喜は775年程前になり天喜ですと950年位前となる。寛正3年は545年前となるが現在のこの二器の鰐口は神社に無い旧栗原郡誌記載のしめ縄掛けの松については今年松喰虫の害により伐採せり。最後に残った一本であった。古くは祭日に一二三迫流域は云うに及ばず遠く登米郡地方より参詣ありと往時は知れ亘った神社と考へられる。特殊信仰、除災、病気平癒。祖霊社の祭儀は春秋の例祭に併せて行ふ。旧由緒に旧社地の事を付記した。

社頭掲示板



雄鋭神社の御神体

雄鋭神社は、尾松稲屋敷高松にあり、延喜式神社で権現様として、地方の人達にあがめられている。御祭神は素盞鳴尊といわれている。昔は御殿山と云って今の三沢山の奥の方に社殿があったそうで、足利時代の永享の頃(1429-40)山火事により社殿が焼けた。その時火消しに駈けつけた御神体を出そうとして、御神体の腕をつかまえた処、片腕だけ残した御神体は空に舞い上り西南をさして飛んだ。
それが山形県最上郡の或る処に鎮座して○○権現として祭られているそうである。こちらの雄鋭神社の御神体は片腕だけで、毎年4月、10月の各17日の春秋の御縁日には、山形より御神体が帰って来るので、御縁日前後の三日間には必ず曇るか雨が降ると云われている。
(蜂谷正一)

蜂谷正一 http://www.st.rim.or.jp/~success/kurikoma9.html



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