もと築館の町の東はずれの築館町源光(旧伊豆野原字玄光坊)に鎭座し、伊豆権現(又は伊豆野権現)と称していたが、正保年間火災のために焼失、その後再建する人もなく只、伊豆権現の石宮とその側に八坂神社の石宮が立ちその跡を祀っていたのであったという。 明暦3年(1657)伊達家家臣古内重廣による伊豆野堰の開削にともない、現在地に社殿を再建し遷座という。 源光の旧社地は民家の庭先の畑の中にあり、「伊豆大権現」と刻まれた板碑が建つている。 |
由緒 町名ゆかりの神社にして延喜式内社栗原七社の一つと云われ祭神は木花開耶姫命、古くは伊豆権現社と称し築館玄光(現築館源光)に鎮座、伊達家二代忠宗公の代、古内主膳重広が伊豆野堰開削ともに明暦3年(1658年)現在地に移し水下十ケ村の鎮守としたと云う。 本殿は慶安3年(1650年)の建築と伝へられ覆堂は昭和30年に設けた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
志波姫神社 由緒 志波姫神社は、木花開耶姫命を祀る延喜式神明帳栗原七座の内の大社にして、人皇第45代聖武天皇の神亀天平年間の創建といわれ、延暦年間(796〜801)に坂上田村麻呂東征の際、武運長久と五穀豊饒を祈願したと伝えられる。社はもと伊豆野権現社と稱し、築館の町裏玄光に鎮座されていたが、正保年中に祝融の災に罹り、社殿のすべてが烏有に帰し、其の後再建されることなく伊豆大権現の石宮を祀るのみであった。 寛永16年(1639)伊達第二代藩主忠宗公は、家臣古内主膳重廣に伊豆野原の野谷地を賜り、その開拓を命ぜられた。伊豆野原を拝領した古内主膳は、伊達藩の土木技術者であった川村孫兵衛元吉に伊豆野原開拓工事の設計を依頼、正保元年(1644)工事に着手、三年の難工事の末、伊豆野堰の完成をみた。伊豆野堰開削によって、伊豆野原開拓に成功した領主古内主膳は、明暦3年(1658)に至って社殿を造営し、水下十五ヶ村の守護神として此の地に遷座した。 明治22年4月、市町村制の施行により、姫郷村、白幡村、梅崎村の三ヶ村を合併し、この由緒ある社名を唱えて志波姫村とした。町名ゆかりの神社である。 平成4年10月27日、志波姫神社本殿(素木造・一間社流れ造り・目板葺)が江戸時代初期の建築様式を伝えるものとして、宮城県指定有形文化財に指定された。 志波姫町教育委員会 志波姫町文化財保護委員会 社頭掲示板 |
志波姫神社 本社は一に延喜式神名帳栗原郡七座の一つで、聖武天皇の御宇に創建されたと伝えられ(口碑、封内風土記、伊治山興福寺鐘銘)伊豆権現と称し、始め築館村玄光という地に鎮座した。桓武天皇の延暦年中坂上田村麻呂東征に際し楼閣を増築して武運長文、五穀豊饒を祈請したという。正保年中祝融の災に罹り後、明暦3年仙台藩士古内主膳重広伊達忠宗の命により水田開墾の折りこの地に遷座した。(口碑、封内風土記)明治8年8月村社に加列する。 宮城県神社庁 |