もと現在地の北800mの桜ノ目の集落の中「下り松」の地に鎮座していたが、元禄6年(1693)領主石母田氏により現在地に遷座 旧跡は現在民家となっていてなんの跡も無いとのこと。 |
志波姫神社 延喜式内名神大社志波姫神社参拝の枝折 御祭神 天鈿女命(アメノウズメノミコト)武甕槌命、(タケミカツチノミコト) 御由緒沿革 奈良時代の称徳天皇天平神護元年(465年)の創祀と伝えられ、元は現鎮座地より北方一キロ余りで志波姫大明神と称し、社内に赤松の大樹あり、地名「下がり松」という。元禄6年石母田の祖頼章は在所定める時、現在の荒雄川北岸高谷地に移祀した。 御例祭 例祭日 9月10日 奉祝祭 9月10同後の日曜同午前10時 往古陰暦7月10日にして塩釜神社と同日なり、塩釜神社は満潮時に御膳を献じ、当社は引潮の時御膳を献ずるを例とした、中古より8月10日と改め大正3年より9月10日に改める。 御祭神の御事暦 ○天鈿女命の御事暦 天鈿女命(アメノウズメノミコト)は、女神で、天太玉命(アメノフトタマノミコト)の御子である。 またの御名を大宮能売大神(オオミヤノメノオオカミ)・宮比神(ミヤヒノカミ)・大宮比盗_(オオミヤヒメノカミ)とも申します。 神代の昔に、天照大御神が、御心に適わぬことがあらせられて、天岩屋へ御幽居なされ、世間は悉く昼夜の別もない常闇となり、よろづの邪神や妖鬼どもが時を得たりと騒ぎ立てた。それを八百万の神達が心配なされて、岩屋戸から大御神を出し奉らねば、鼓の邪気は止むまいと種々に御工夫なされ、岩屋戸の前に種々の物等を作り備え、庭燎を焚き、神楽を奏して、その音楽をあやしませ奉って、出御ならせようと、神々はそれぞれの諸役をつとめられた。さて、この神楽の時に、この天鈿女命は、天香具山の日蔭のかつらを蔓となし、まさきのかつらをたすきにかけ、左の御手には、手草と申して、天香具由の笹葉を束ねてお持ちになり、右の御手には、さなぎと申す鈴をつけ、茅萱で巻いた矛を持って、彼の岩屋戸の前に宇気槽という空洞の船のような物を伏せて、その上で足拍子を取って舞われた。ここに八百万の神達は、楽器を合わせてうち囃すと、この大神は、いとも美しい声で、「ひとふたみよ、いつむゆ、ななや、ここのたり、ももちようつ」と、お謡いなされ、神懸りといって憑物のしたように、わざとおかしく物狂わしく舞い踊られた。八百万の神達は、その所作の面白さおかしさに堪えかねて、諸声をあげて賞め笑った。ところが、案に違わず、天照大御神は、この大神の舞い踊り戯れたもよう、俳優の面白く聞こえるのをあやしと思召され、天岩屋戸を細めにあけて、御すきみあらせられたところを、手力男命という神が、遂に岩戸を引きあけ、その御手をとって引出し奉り、かねて新たに造っておいた御宮にお遷し申し上げて、闇黒であった世の中は再び照り明るくなり、彼の邪神どもは、悉く逃げ失せたのである。ここに八百万の神達は、大いにお悦びなされて、面をかわせたところ、始めて明白に見えたから、手を伸ばして歌い舞い、ともに覚えず、諸声をあげて、「天晴れ、あなたのし、あなさやけ、おけ」と申して、この大神の演技をほめられたのである。ところで、御歌の「ひとふたみよ、いつむゆ、ななや、ここのたり」という詞の意味は、「神々よ、天の岩屋戸を御覧なさい。天照大御神のお姿が現われたならば、出し奉ろうとした謀は見事に成功した。これでこそ、大いに満足である」ということであるまた、また「ももちよろづ」は、股乳宜しで、天鈿女命が舞われて、股乳をあらをされた有様が、よろしいということである。また、この詞は、大変目出度い詞であるので、後世の人は、数の名の百千万(ももちよろず)を唱えるようにしたものである。 これから後に、櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)と申す方を天降しなされた時に、十種の神宝を授けられて、もし、病しい事があったならば、この宝を振って、「ひとふたみよいつむゆななやここのたり」と唱えよ、そうしたならば、死んだ人でも蘇生するであろうと仰せられて、人の体から遊離する魂神を鎮め留めるところの、鎮魂祭という大切な神法を伝えられた。饒速日命は、この神法を行って数百歳の寿命をお保ちなされ、後に神武天皇にお伝えなされ、歴代の天皇が、この御祭を行なわれるときに、この大神の御子孫の猿女君が、うけふねの上に立ちテ、矛を持ってつき鳴らし、声たからかにこの御歌を唱えることは、この時の由緒に拠ることである。それで、この大神には、人の寿命を守護して、長生きさせる御功徳があるのである。 天照大御神は、既に岩屋戸を御出ましになり、更に新宮に御遷座申し上げて、この大神がその御前に伺候し、よくその御心を取られて、慰めまつりおとぎを申しながら、御側の事をも執らせられるにより、御名を大宮能売神とも、大宮比盗_とも申すのである。これがために、古くは、高い卑しい、男女を間わず、宮仕えする人達は、毎年正月と12月の初午の日に、宮桃ユ(ミヤノメノマツリ)と申して、みやびやかに、この大神を祭ったものである。 それで官公史は勿論、勤める人、仕える人々、または俳優・音曲の道にある者、或いは商業等を行って、世の愛敬を求める人は、常にこの大神の御恩恵に預らんことを祈るべきである。 この大神の御名の、天鈿女の(アメ)はほめことばで、(ウズメ)は強い女神の意である。 また、宮比神と申す宮比はこの大神が宮人の始祖であるから、宮人風という語をつづめて言つたのである。 御神徳 神楽・巫女の祖神 歌舞・音曲の恩神 万民豊楽の祖神 蘇生長壽の守護神 みやび風の恩神 家庭円満の守護神 芸能上達の守護神 商売繁昌の守護神 宮人勤人の守護神 精神・生命・生業・生活・生産の守護神 由緒書 |
志波姫神社 本社は称徳天皇の天平神護元年(765、奈良)の創祀と伝え(社伝)、もとの鎮座地は、今の地より北方八丁「下り松」(桜芽村)に在りしが、元禄6年伊達公族石母田氏の祖頼章在所を定むるにあたり荒雄川北岸現在の地に移し奉る、(社記)清和天皇の貞観元年(859、平安)即位の恩典により従五位勲四等から従四位下に進められ、延喜の制名神大社に班す。(延喜式)元別当桜目寺あり維新の際伊達藩が封を削られこの地は一時宇都宮藩の取締地となり、旧記、宝物など悉く没収され明治に及んだのである。(社記)明治5年4月郷社に列せられ、同40年3月共進社に指定された。翌41年2月村社鹿島神社を合祀する。(社記) 宮城県神社庁 |