旧社地である押釜字戸鳥土は高倉の西、阿武隈山地から流れ出た水無川が、原町市を形成する新田川の沖積平野へ流れ出る地点である。水無川の治水に関連のある祭祀と考えられる |
押雄神社 文化12年(1815)、中村藩主相馬盆胤の命により式内行方八社を調査した渡邊美綱は次のやうに報告した。押雄神社は職國の世に頽廃せるが、僅かに叢祠が戸鳥土に存し祠官もゐない。邑民密かにこれを三九郎なる者の屋敷に遷し崇信してきたが、三九郎の子孫も亦絶えた、と。報告により、同年六月、織持のため田一石が貸与された。 式内社調査報告 |