川に向かった尾根の上に鎮座する。 往古、桃生の国主紫桃氏の祖が京都の上下加茂神社を勧請して現社地南西の山神の地に祀り、後、現在地に遷座したと伝。 |
宮城県文化財指定 賀茂小鋭神社 賀茂小鋭神社は 平安時代醍醐天皇の時に編纂(927年)された 延喜式神名帳に登載されている社格の高い神社として知られている陸奥の国の鎮めとして 或いは人々の心のふるさとたる産土神として 遠い み親達から 代々受け継いで今日に至っている 神社の奥殿には御神像七体祭祀されている つい先頃までは御神体として尊崇■■され 決して人々の目に触れることがなかった 近代、文化財の保存と活用が 国民の文化的資質向上に 欠くことが出来ない急務とする趨勢に答え 文化財保護委員会の求めに応じて審査を依頼した結果 昭和30年 その内5体が県重要文化財としての指定をうけることになった 鎌倉時代初期の作と鑑定され 木造カヤ材による一本造りである 素朴ではあるが 全身全霊を捧げて造り奉った作者の魂のこもる すぐれた造りである しかし 約一千年の星霜に堪えた文化財なので 腐朽破損の度合いも甚だしく一日も早い修復が望まれていた 今の度 総代会 有志など相図り これを立案その実現方を里人に計った所 心ならずも全員の賛同を得るに至った ここに於て 県文化財保護による補助 町当局の特別■■氏子崇敬者の■財等により 予定額を上回る拠出を得 仙台市の彫刻家林鳳雲氏の手により 完全に復元 奥の院に鎮め奉ることとなった これは郷土の歴史的慶事である 尚これを記念して防火施設を新しく設け本殿拝殿等の地盤を固め直し 或るいは石段を補修して手摺を取りつける等 大々的な事業を合わせ行うに至った 此処に賀茂小鋭神社の弥栄を祈念し この碑を建てるものである 社頭石碑 |
賀茂小鋭神社 賀茂小鋭神社(延喜式内社) 桃生六座の一つで平安時代(800年代)に設置されている。古くは小田神ととなえ、小鋭神社と称した。後、京都加茂別雷神社の分霊を得て合祀され、以来、賀茂小鋭神社と称されている。 奥の院に御神像七体が安置され、ほとんどが木像カヤ材一木造りで、鎌倉時代初期の作である、内、五体は昭和31年、県重要文化財の指定をうけた。 神社の境内は広く、樹令数百年の杉、松が茂っていて深遠である。 昭和58年9月1日 桃生郡河北地区教育委員会 社頭掲示板 |
賀茂小鋭神社 創祀年月日不明(鎮座地の屋根伝い石巻市渡波に至る山が牡鹿の柵との説あり。創祀年は柵創設と関連すると思われる)延喜の制に列す。三宝院弥介の祖先、福地山の神の山に勧請、小鋭神社と称した。後紫桃氏の祖、京都賀茂神社の分霊を得て合祀。(文治2年)。明治5年11月28日郷社に指定。明治40年3月幣帛供進社に指定された。昭和21年宗教法人令により承認。同27年宗教法人法により宗教法人の認証を受けた。鎮座地は牡鹿半島の東の付け根に位置し、同半島の西の付け根に位置する石巻港との内陸水路交通により近代以前殷賑をきわめたと言われる。 宮城県神社庁 |