日高見神社
ひたかみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】日高見神社 陸奥国 桃生郡鎮座

   【現社名】日高見神社
   【住所】宮城県石巻市桃生町太田字拾貫1-73
       北緯38度33分20秒、東経141度16分46秒
   【祭神】天照皇大神 天日別命 (配祀)日本武命 武内宿禰命
       『大日本地名辞書』は三代實録に「日高水神社」とあるによりて、河水の神霊なりと説いている。

   【例祭】10月19日 秋季大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】景行天皇40年日本武尊創祀
       延暦21年(802)正五位上
       貞観元年(859)5月17日従四位下「三代実録」
       康平・治暦年間(1058−69)源頼義倍貞任討伐の折兵火に罹焼失
       乱平定の後、頼義社殿を再興
       天正19年(1591)葛西晴信滅亡の際兵火により焼失
       寛永年中(1624-44)社殿の再建
       明治5年11月郷社
       同40年3月神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座していた

   【祭祀対象】北上川の河神
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】伊勢神社・愛宕神社・八幡神社

集落奥の山腹に鎮座している。
三代実録に「陸奥国日高見水神」とあるので往古は北上川の河神ではなかったかと思われている。
景行天皇40年、日本武尊東夷征伐のため上総より海路陸奥に入り、日高見國に至りこの地の賊を平定、この尊の偉業を崇敬して建立したのが本社であるといい、或は日本武尊東征の際、この地に齋場を設け天津神を祀りて神霊と王室を尊崇すべきことを教えた、これすなはち本社勧請の由来なりという(社伝)。又一説に、往昔安倍貞任の造営するところという(『封内名蹟志』)。
北上川の流れる流域はむかしは日高見国といわれ、水と太陽に恵まれた肥沃な大地であった。北上川は日高見川のなまったものと言われている。この日高見国の中心地は仙台平野でしたが、大和朝廷の度重なる軍事的な侵攻によって胆沢地方(岩手県の水沢を中心とした北上盆地)に最後の拠点をのこすだけになり、この最後の拠点も802年の坂上田村麻呂によって阿弖流為(あてるい)が降伏して、陥落した。
当社はその日高見国と関連があるとも言われている。


日高見神社

(一)社 格 …郷社
(二)祭 神 …天照大神・日本武尊・武内宿弥
(三)所在地 …太田字拾貫
(四)祭 日 …4月19・9月19日
 「続日本記」によれば、宝亀11年(780)「百済王俊哲等が賊に囲まれ桃生・白河等の郡神十一の社に祈る」がこの神社の初見で、桓武天皇の延暦21年(802)正五位上勲五等に叙し、続いて三代実録の貞観元年(859)の「陸奥国日高見水神に従四位下に授く」とあるので往古は北上川の河神ではなかったかと旧「桃生村誌」は記している。
 御冷泉天皇の康平歴年中(1058〜1069)、源義家が貞任討伐の折、神殿を造営して武内宿弥を併祀し、祭田を寄進した。
 社殿は、永正8年(1511)山内首藤、葛西の合戦の折、兵火に罹って焼失し、宝永年間(1704〜1710)に再建された。現在の社殿は、拝殿・幣社・本殿とも昭和45年に改築された神明造りである。
 延喜式内社奥州百座中・桃生郡六座の一つとして社格を誇り、古くから遠近の信仰を集めてきた日高見神社は、この百社中所在地も明確で郡内六座の筆頭である。
平成6年3月 桃生町教育委員会

社頭掲示板



日高見神社

古来この地方に伊勢津彦尊が居住しており、高皇産霊神の子孫天日別尊に亡ぼされる。尊はそれを皇孫に奉ったとあり、神武天皇の御世に天日別尊を祀って日高見宮としたと伝えられる。景行天皇25年、勅を奉じて武内宿禰が北陸及び東国を巡察、同27年帰朝して奏言するに「東夷に日高見の国あり、人勇敢にして土地沃穣なり撃って取る可し」とあり、同40年、皇子日本武尊は上総から海路陸奥に入り竹水門(七ヶ浜塩釜港附近)から日高見の国に到り賊を平定したとされている。この時、尊は武運を祈願し、皇祖天照大神を祀って日高見神社が建立されたと伝えられる。続日本記には、宝亀11年(780)「百済王俊哲等が賊に囲まれ桃生白河等の郡神十一社に祈る」の項に日高見神社の社名がありそれが初見とされている。桓武天皇の延暦21年(802)正五位上勲五等に叙し、続いて三代実録の貞観元年(859)「陸奥国日高見水神に従四位下を授く」とあるので、往古は北上川の水神を祀った社とも言われている。第70代後冷泉天皇の康平暦年中(1058〜1069)源義家が安倍貞任討伐(前9年の役)の折、神殿を造営して日本武尊、武内宿禰を併祀し、祭田を寄進したとされている。社殿左右に祀る日本武尊、武内宿禰尊の二神像は寛永年間に造られたものである。安永風土記には「往年社地の東南を穿ちて神鉾三支を得た」とあり、嘉永3年(1849)には匂玉三顆を発見している。天正19年(1591)山内首藤、葛西の合戦の折り、兵火に罹って社殿、社蔵文書の一切を消失、宝永年間(1704〜1710)に再建されている。当社は延喜5年(905)延喜式神明帳に登載されている延喜式内社で、奥州百座、桃生郡六座のうちの一社である。明治5年11月28日郷社に列せられ同40年2月、愛宕(字上九郎沢)同(字下道山)清川(字細谷)薬田(字薬田)初雷(字谷地)熊野(字袖沢)八幡(字九郎沢)の七社を合併、同年神饌幣帛料供進の指定を受けている。中古畿内、大和の国より藤原安比は、藤原蠏守、藤原稜威の二者を伴い来て社務の従事に当る。安比の家は国名を取りて姓を大和と改め、蠏守の家は日野、稜威の家は今野を名乗る。應永年間兵火に罹りて社頭並びに社領は奪略され、日野、今野両家は奉仕の道なく帰農したりしが、大和の遠裔はその職を踏襲、寛永年間から修験、聖護院宮門徒となり、鴻巣山東仙院の称号を受けている。更に石宝院、良国院と称し来たりしが明治維新の際、現称大和に復し累世社務に従事している。当代29代を数えて今日に至る。尚、現在の社殿は昭和25年造営されたものである。

宮城県神社庁



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