往古は山頂(標高110m)に鎭座していたと伝。なお、本社の西側の丘陵、飯野新田の長者森は古代の桃生城跡と推定されている。 元来この地には熊野社一社が祀られていて、別に飯野山神社の社殿が設けられたのは後代のことで、或は、文化4年(1807)の山崎氏の造営の時ではないかと思われる。 向って右側が飯野山神社、左側が熊野神社と並んで建っている。 |
飯野山神社 延喜式内 飯野山神社 一、 祭 神 稚産霊神 大山津見神 保食神 一、 御神徳 衣食住の守護神 一、 神紋は菊花紋なるも明治2年大政官布告により使用を禁止さる、依って山崎家の家紋なる四菱紋に改む。 一、 由緒 沿革 日本武尊 東夷征伐の折此の郷に御本陣を定め給うた時、粮食欠乏し、尊憂い給いし時に三人の老翁が現れ、粮米を炊き、尊に奉る、尊御感悦あつて夷賊を平定して後、祠を建て之を祀る、飯野の地名これより起ると云う、潘汁の流水至るを飯野川と云ひ碓を以て粮米を搗きし処に、碓神社を祀る、地頭山崎氏藩命を承り松前に出陣せし折り指小旗の徽章に飯野山大権現と記し文化4年無事帰郷せしに依り奉賽として拝殿を新築して奉る、寛政年間の棟札には飯野山大権現とあり、中古山頂より中段なる現在地に遷座し奉ると云伝へあり。 一、 明治40年3月1日 神饌幣帛供進神社に指定さる。 平成元年3月15日 宮司 及川剛 社頭石碑 |
飯野山神社 社伝によると第12代景行天皇(西暦72年即位)の第二皇子倭健命(日本武尊)東夷征伐の折り、この地に本陣を営んだ。 ところが陣中に粮食が欠乏し、倭健命(日本武尊)大いに憂いていたところ三人の老翁が現れ、飯を炊き皇尊に奉る。 皇尊はこれを神助なりと大いに喜び、平定の後、祠を建ててこれを祀る。これが当社発祥の由来である。 飯野の地名これより起こると云う。とぎ汁の流水至るを飯野川と云い、碓を以って粮米を搗きし処に碓神社を祀る。 地頭山崎氏藩命を承り北海道松前に出陣の折り指小旗の徽章に飯野山大権現と記し文化4年無事帰郷せしおり奉賽として社殿を新築して奉る。 寛政年間の棟札には飯野山大権現とあり往古、飯野山の山頂より中段なる現在地に遷座する。 公式HP |
飯野山神社 当社の創建は、第12代、景行天皇第二皇子、日本武尊東夷征代の時、この郷に本陣を定めた時、陣中に糧食欠乏して軍士の殆んど飢に至る。日本武尊、甚だ憂い給いし時、忽然と3人の老翁現れ、飯を炊き以って之を奉る。日本武尊、大いに御感悦あって夷賊を平定して後、祠を建て之を祀る。故に、現在もこの地を飯野と呼び、とき汁の流れるを飯野川という。又、炊飯した処を碓と云い、現在も碓の地名あり、碓明神として氏子三軒にて崇敬せり。寛政年間の棟札には、飯野山大権現とあり。「社伝、風土記」往古は飯野山頂にありしが文化4年、地頭山ア氏の信仰厚く、七代の山ア源左衛門、藩命により北辺(北海道松前)警備の任了えて帰るや社殿を中腹に造営して神霊を遷し奉る。明治5年3月村社に列し、明治40年飯野の水分、一皇子、秋葉、出雲、愛宕(無格社)の各神社を合祀する。ついで幣帛供進社に指定される。延喜式内社。 宮城県神社庁 |