羽黒神社
はぐろじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】計仙麻神社 陸奥国 牡鹿郡鎮座

   【現社名】羽黒神社
   【住所】宮城県気仙沼市後九条271
       北緯38度53分53秒、東経141度33分1秒
   【祭神】倉稻魂命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観元年正月従四位下
       明治3年羽黒神社と改称
       明治5年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「計仙麻惣鎮守羽黒山白山両権現」と称していた
   【参考HP】 羽黒神社
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】

江戸時代は、計仙麻惣鎮守羽黒山白山両権現と称していたのを明治3年羽黒神社と改称した。


由緒

当神社は元郷社の社格にあり、計仙麻本郷七ヶ村総鎮守の古社であります。気仙沼市後九条羽黒山に御鎮座になり、御祭神は「うがのみたまのみこと」であります。御例祭はもともと旧暦の10月10日でしたが、今は新暦10月10日に齋行されます。延喜式内神明帳にある牡鹿十座の一つで、計仙麻神社であるともいわれ、海陸鎮護のため勧請したものではないか、ということで、往昔から諸衆の厚い崇敬を受けてまいりました。香久留ヶ原は中納言原ともいい、現気仙沼高校から西方にかけた一帯ともいわれております。羽黒神社南方の丘にある小社、大塚神社は、この地に当神社を勧請した中納言菅原昭次卿の墓所であるといわれます。仏教の盛んな時代、計世麻総鎮守羽黒・白山両大権現と称し仏体を安置していましたが、神仏分離令により明治3年羽黒神社と改め、同5年郷社に列せられました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




羽黒神社の由来

伝記などによりますと、今からおよそ1160年前、嵯峨天皇の弘仁年間のことといわれます。五條民部中納言菅原昭次卿が行くえ知れずとなった妻子(玉姫と一若)を捜し求めてこの地にたどり着きました。
そして、もはや神のお力にすがるよりほかはないと羽黒権現に祈願をこめました。すると二羽の霊鳥が導案内に飛び立ち、今の陸前高田市米崎町あたりに着きました。
なんと、そこでなれない田植え仕事をしている妻子とめぐり逢えたというのです。
昭次卿は羽黒権現の神恩に感謝し、当時は小さな祠であったのをりっぱな社殿とし、玉姫の守り本尊であった聖観世音像をお祀りして神社を中心に地域の発展に尽くしたということです。現気仙沼高校付近は昭次卿のやしき趾であったといわれ、卿を祀る祠があります。また羽黒神社の南西にある大塚神社は昭次卿の墓所といわれております。そしてこの辺一帯は中納言原とよばれました。九条。田中地域が、気仙沼の集落発祥の地をいわれるわけはここにあります。以来幾星霜、国の宗教政策により寺号を称えたこともありますが、地方隋一の古社として郷社に列せられ、いまも霊顕あらたかな郷土の守護神として多くの信心を集めております。祭典は10月9日宵まつり。翌10日が例大祭で神輿の渡御祭がとり行なわれます。社地には杉・赤松・けやき・かやなど樹令二百年以上と推定される古木とともに神域全体が氏子、崇敬者等多くの人々によってよく整備保存され、山鳩の啼く鎮守の森として親しまれております。
この由来板は昭和50年に九条青年教室わらじの会が九条田中のむかし語り(山鳩の歌)の発行を記念して設置されました以来35年を経て雨風に朽ち損ないしによりこの度天皇陛下御即位20年を奉祝記念して潟Aカマ店装赤間文彌氏虚ス建設菅原文秋氏泣nウスケアエコ畠山浪男氏潟Rマツ美工小松光雄氏等のご厚志により新たに設置奉納されました
平成21年正月
羽黒神社

社頭掲示板



羽黒神社

鎮座地気仙沼は、もと釜ノ前湾(浦とも)といい、延喜式、文徳実録に見る気仙麻(アイヌ語ケセは、下或は終、しものはずれ、末端。、マは島岸或は江湾の意で、今気仙沼というのはその転訛で近村七ヶ村は桃生郡内であったという)で、この羽黒神社をもって延喜式内気仙麻神に擬する者もある。
しかるに「封内風土記」によれば、九条と号する地に在り。伝え云う。本邑の鎮守なり。嵯峨帝の弘仁中(810〜823、平安)五条民部卿、菅原昭広卿長男三位中納言昭次卿の草創するところにして、本地仏は昭次卿夫人玉姫護持の本尊で、はじめ寺があり、天台宗にして羽黒山九条寺と云った。その後この寺は衰えたが大和国の修験有実法印が後堀河天皇の貞応2年(1223、鎌倉)2月この村に来て本社を再興したと記している。この有実法印と言う人は泰氏三積少進行実といい、壮年のころ叡山に登って僧となり寛実と号した。後、修験有髪沙門となり名を有実と改め、本村に下って羽黒社を再興し別当となり養法院と称した。即ち、その子孫綿々相伝えて今日に至る。
明治のはじめ現社号に改め、12年6月郷社に列す。

参考HP



羽黒神社

当神社は旧郷社にして計仙麻(ケセマ)本郷7ケ村総鎮守の古社である。古老の伝えによると延喜式内神明帳にある牡鹿十座の一社、計仙麻神であると、しかし、往古の当地方は桃生郡であったが故に、その説を疑する声もある。鎮座地気仙沼湾は古くは鼎ケ浦といい、延喜式、文徳実録に見る計仙真(ケセマ)のケセは蝦夷語の終わり、又、末端の入江の意で海陸鎮護の神と祀られたと云われる。又、封内風土記によれば、嵯峨帝弘仁年中、五条民部菅原昭廣卿の長男、三位中納言菅原昭次(すがわらのあきつぐ)卿の草創によるもので、相模の国司であった昭次卿が故あって別れ別れになった妻子を捜し求めて、奥州に下るとき、出羽、羽黒の神に詣でて御分霊を拝受して計仙麻香久留ケ原(現鎮座地の九条)に留まり白山の社地の一所に祠を建て御分霊を祀り、妻子との再会を祈念せしところ、神の杜より飛びたてる霊鳥の導きにより首尾よく再会を成就したことに奉謝して、社殿を建立し、更には九重の塔を建立して、妻、玉姫の護り本尊、弘法大師作の聖観世音を祀り、九条寺、常楽寺、伝法寺等の寺を建てて、生涯この地に留まりて地方発展に功をなしたと伝えられる。後に大和の国の修験、有実法印が貞応2年この地に留まりて社殿を再興せると記している。この有実法印は秦氏三積少進行実といい、壮年のころ叡山に参籠し僧となり寛実と号した、後、修験有髪沙門となり名を有実と改め本村に下って羽黒の社を再興し別当となり、幕居に入りて自性院と称した。その子孫綿々と相伝えて今日に至る。いまは九条寺、常楽寺、伝法寺は衰えたがこの縁起に纏わる伝説、地名や屋号が多く残り、羽黒神社の隣接地に昭次卿の墓所、大塚神社が、昭次卿の館跡(現、気仙沼高校校庭内)に中納言神社が祀られてあり、中納言原、又、香久留ケ原と親しみ呼ばれている。

宮城県神社庁



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