鹿島御児神社
かしまみこじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】鹿島御児神社 陸奥国 牡鹿郡鎮座

   【現社名】鹿島御児神社
   【住所】宮城県石巻市日和が丘2-1-10
       北緯38度25分26秒、東経141度18分29秒
   【祭神】武甕槌命 鹿嶋天足別命
   【例祭】5月第2日曜日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天平9年(738)以前に創祀
       宝亀11年(780)鎮守府副将軍百済俊哲の奏上に依り準幣社
       貞観8年(866)正月10日鹿島神宮裔神八社と記載
       延暦元年(782)勲五等
       元暦年中(1184)藤原秀衡・泰衡社領寄進社殿修築
       文治年中(1186)奥州奉行葛西三郎清重宝物を寄進
       永仁年中(1294)伊豆守清宗石巻日和山に築造の際本社を其南麓に移
       延宝年中(1674)山崩の為社務所潰倒埋没し、宝物旧記等を失う
       享保20年(1735)旧社地に遷座
       明治7年村社
       大正10年郷社
       昭和10年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初現在地に鎮座
        永仁年中(1294)石巻日和山に築造の際本社を南麓に移座
        享保20年(1735)旧社地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 鹿島御児神社
   【社殿】本殿入母屋造
       拝殿・幣殿・社務所

   【境内社】

往古関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命をうけて海路奥州へ下向し東夷の征伐と辺土開拓の経営に当ることとなりその乗船がたまたま石巻の沿岸に到り碇舶して錨を操作した際、石を巻きあげたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの云い伝いがある。
元は鹿島台にあったが葛西伊豆守清宗が日和山に築城の際、現在地に遷座という。


由緒

当社は、延喜式神名帳所載の式内社で、国史現存社として最も由緒深い神社であります。
当神社創建の由来・縁起について、これを明らかにする史料がありませんが、従前の調査、および史跡・口碑・伝説・社蔵文書の調べによりますと、往古、関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓の経営にあたることとなり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着、停泊して錨を操作した際、、石を巻上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。石巻に上陸された両御子は先住蛮賊地帯であった奥州における最初の足跡をしるした大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な功績を残された地方開発の祖神であります。
当社は代々、使臣、藩主等の尊崇厚く、社領を寄進し、幣物を贈り、また社殿を修築し、宝物の寄進等あり。
明治7年、旧村社に列す。大正10年、旧郷社に列格。昭和10年、県社に列格。
当社は勝利の神として職業繁栄を守り、悪疫除けの神、安産の神、鬼門除けの神、海上安全の守護神として、また交通安全祈願の霊験著しく、その信仰ますます盛んであります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




鹿島御児神社

当社は延喜式神名帳所載の式内社で国史現在社として最も由緒深い神社であります。当神社創建の由来縁起についてこれを明かにする史料がありませんが、従前の調査及史蹟、口碑、伝説.社蔵文書の調べによりますと、往古関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命をうけて海路奥州へ下向し東夷の征伐と辺土開拓の経営に当ることとなりその乗船がたまたま石巻の沿岸に到譜碇舶して錨を操作した際、石を巻きあげたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの云い伝いがあります。石巻に上陸された両御子は先住蛮族地帯であった奥州に於ける最初の史跡を印した大和民族の大先達であり開拓の先駆者として偉大な勲績を残された地方開発の祖神であります。
当社は代々の使臣藩王等の尊崇厚く社領を寄進し、幣物を奉り又社殿を修築し、宝物の寄進等あり。
明治7年旧村社に列す。大正10年旧郷社に列格。昭和10年旧県社に列格。
当神社は、勝利の神として職業繁栄を守り、悪疫除けの神、安産の神。鬼門除けの神、海上安全の守護神として、又交通全祈願の霊験著るしく、其の信仰益々んであります。
ご祭神
武甕槌命
鹿島天足別命
祭日 5月15日
奈良時代 天平9年 45代 聖武天皇西紀 737年 牡鹿柵成り本社地内及附近の地、其域内なりしかば代々の使臣、尊崇厚かりしという。 同 宝亀11年 49代 光仁天皇 西紀 780年 鎮守府副将軍百済俊哲の奏上に依り準幣社となる。
同 延暦元年 50代  桓武天皇 西紀 782年 勲五等に叙せらる。
平安時代 貞観8年 56代 清和天皇 西紀 866年 鹿島神、陸奥国に鎮祭せらるるもの貞観8年に於て三十八社あり。本社は実に其の一なり。
同 延喜年中 60代  醍醐天皇 西紀 902年 全国神社調査、世に延喜式神明帳といわれ、本社も記載されている。
鎌倉時代 元暦年中 82代 後鳥羽天皇 西紀 1184年 藤原秀衡、泰衡、社領寄進、社殿修築す。
同 文治年中 82代 後鳥羽天皇 西紀 1186年 葛西三郎清重奥州奉行兼平泉検非違使となり、当地方を領し、本社を崇敬し、宝物を寄進す。
同 永仁年中 92代 伏見天皇 西紀 1294年 清重五代の孫伊豆守清宗鎌倉より下向し、石巻日和山に築城するや、本社を其南麓に移転し清宗亦本社を崇敬し社領を寄進し、社殿を造営す。
室町時代 興国年中 98代 後村上天皇 西紀 1341年 興国年中鎮守府将軍左中将北畠顕信、日和山城に在りて葛西氏と共に四隣の賊軍と戦い多賀の国府を占拠せる石堂秀慶父子を撃破し、遂に三迫に追へり。 興国4年11月宇津峯落城後守永親王を奉じ、出羽を経て日和山城に来れる社伝あり。南朝の将軍より幣物を奉りしことの口碑蓋し此事なるべし。
同 天文5年 105代  後奈良天皇 西紀 1536年 葛西家十三代武蔵守宗清、登米郡寺池に移城し日和山廃墟となる。
安土・桃山時代 天正18年 106代 正親町天皇 西紀 1590年 葛西家17代左京太夫晴信、豊太閤の為に社領 を没収せられ、加賀に流謫せらる。仍て再び社領を失う。
江戸時代 延宝年中 霊光天皇 西紀 1674年 山崩の為社務所潰倒埋没し、宝物旧記等を失う。
同 元禄16年 103代 東山天皇 西紀 1703年 御検地高畑代二百十五文の地を本社供料として門脇村より寄進せらるるも明治初年上地せしめらる。
同 享保20年 105代 桜町天皇 西紀 1735年 享保19年2月別当嘉宝院元獄本社を旧社地に移転の儀仙台藩庁の許可を得て同20年現境内地に移転遷座東西三十五間南北五十四間除地となる。
同 明和9年 118代 後桜町天皇 西紀 1772年 仙台藩庁の命に依り海上安隠の祈祷を執行示後恒例となる。
同 寛政6年 119代 光格天皇 西紀 1794年 本殿並に拝殿、玉垣等の修繕をなすに際し、国主より左の寄進あり。
一、御初穂米弐拾石並に普請中の諸人夫
  牡鹿郡中より御屋形様御役所(伊達家)
一、銭八拾貫文並に檜角百本   
   奥州南部慶治郎御役所(南部家)
一、米拾石
一、一ノ関様御役所(田村家)

社頭掲示板



鹿島御児神社

当神社は延喜式神名帳所載の式内社で国史現在社として最も由錯深い神社であります。
当神社創建の由来縁起についてこれを明らかにする史料がありませんが、従前の調査及史蹟、口碑、伝説、社蔵文書の調べによりますと、往古関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命をうけて海路奥州へ下向し東夷の征伐と辺土開拓の経営に当たることになりその乗船がたまたま石巻の沿岸に到着碇舶して錨を操作した際、石を巻きあげたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。
石巻に上陸された両御子は先住蛮族地帯であった奥州に於ける最初の史跡を印した大和民族の大先達であり開拓の先駆者として偉大な勲績を残された地方開発の祖神であります。
当神社は代々の使臣藩主等の尊崇厚く社領を寄進し、幣物を奉リ又社殿を修築し、宝物の寄進などもあります。
明治7年旧村社に列し、大正10年旧郷社に列格。昭和10年には旧県社に列格しました。
当神社は、勝利の神として職業繁栄を守り、また悪疫除けの神、安産の神、鬼門除けの神、海上安全の守護神や、交通安全祈願と霊験著しく、その信仰は益々盛んです。

公式HP



鹿島御児神社

鹿島御児神社の御由緒は古く、その創建の由来縁起についてはこれを明らかにする史料はありませんが、平安時代の『延喜式神名帳』には既にその名が見られ、国史見在社として最も由緒深い神社です。御祭神は、武甕槌命・鹿島天足別命の親子二神で、武甕槌命は天孫降臨に際し、葦原中つ國の平定に御功績を挙げられた神であり、また、その御子神である鹿島天足別命は香取神宮祖神の御子神と共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓の経営にあたることとなりました。その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着碇泊して錨を操作した際、石を巻き上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。石巻に上陸された両御子は先住蛮族地帯であった奥州に於ける最初の史跡を印した大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な勲績を残された地方開発の祖神です。古くより代々の使臣藩主等の崇敬も厚く、社領・宝物の寄進、社殿の修築等がなされてきました。明治7年には旧村社に列し、大正10年には旧郷社に列格。昭和10年には旧県社に列格しました。勝利の神として職業繁栄を守り、悪疫除けの神、海上安全の守護神として民人の信仰篤く、また交通安全の霊験著しく、其の信仰は益々盛んとなっています。

宮城県神社庁



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