牡鹿半島の沖1Kmほどに浮ぶ金華山に鎮座。 周囲26Km、中央最高点445mの金華山は恐山・出羽三山と並ぶ、奥州三大霊場の一つで、島全体が当社の御神域。 当社は式内「黄金山神社」に比定され、その他陸奥国牡鹿郡の式内「大嶋神社」、同「計仙麻神社」に比定する説がある。 |
由緒 今からおよそ1240年前、聖武天皇の御代、天平21年に(西暦749年)、陸奥の国主百済王敬福が朝廷に黄金を献上した。天皇はおおいに喜ばれ、年号を天平勝宝と改められた。この史実は、我国最初の産金として史上有名なことであり、この史実にちなみ、同2年牡鹿連宮麿たちが相謀り、国主に請願し、秀麗の地金華山に金をつかさどる金山毘古神・金山毘賣神を奉斎し、神社を創建したのが、金華山黄金山神社である。 中古以来、神仏習合時代は辯財天を守護として、仏像を祀り、金華山大金寺と称し、多くの信仰を集め、女人禁制を敷いた。 永万、仁安の頃(1165〜68年)は、平泉の陸奥守藤原秀衡が、寺領三千石を寄進、堂塔および四八坊を山内四箇所に建立、荘厳美麗をきわめた。その後さらに奥州総奉行に任ぜられた(文治6年、1198年)石巻城主葛西三郎清重が千五百石を寄進し荘厳であった。 しかし、天正の乱の兵火の為に焼失し、文禄2年(1593年)下野国岩倉の僧成蔵坊長俊(栃木県日光山の僧正)が大金寺を再興し、代々真言宗にて祭祀を奉じていた。 すなわち、東奥の三大霊場(出羽三山・恐山・金華山)として修験者が次々と来山し、修業を積んだ者は、金華山信仰を各地で広めていった。 後、文化10年再度の火災に遭ったが、仙台藩主伊達家において、一山を除地として管理を大金寺に任ぜられ、さらに寺塔を建立し、伊達家代々の崇敬あり、年毎に隆盛をきたした。 明治2年、神仏分離令により、仏号を除き黄金山神社としたのである。この時十七世康純坊運昌は復飾して、奥海正と改め、神社に奉仕することとなり、女人禁制も解除された。この際、御祭神も復古して、金山毘古神・金山毘賣神の二柱とし、頂上奥の殿(奥の院)大海祇神社の御祭神は大綿津見神、市杵島姫神(辯財天)ほか二柱を奉斎した。 明治7年には県社に列せられ、昭和21年制度の改革により国家管理を離れ、宗教法人を設立し、神社本庁に所属、昭和27年に別表神社となった。昭和54年3月に金華山島は国定公園に指定され、現在年間50万人の参拝者で連日賑いをみせている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
黄金山神社 黄金山神社の由緒 御祭神 金山毘古神 金山毘売神 今から凡そ1300年前聖武天皇の御代天平21年(西暦749年)にそれまで日本では採れないと考えられていた黄金が陸奥の国で発見され国主百済王敬福より砂金九百両が朝廷に献ぜられた。当時東大寺大仏建立にあたり鍍金用黄金の不足に頭を悩ましていた天皇はこれを大いに喜び、年号を改元産金者らには昇叙、賜姓、免税がなされ国家的な一大慶事として祝賀された万葉歌人大伴家持は すめらぎの御代栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲くと詠ってこの記念すべき初産金を祝福し以後みちのく山と呼ばれていた秀麗な島は金花山又は金華山と呼称されその地に慶祝をこめて金を司る金山毘古神 金山毘売神を奉祀神社を創建したのが金華山黄金山神社である中世以降神仏習合時代は大金寺が中心となり東奥三大霊場の一つとして修験者が活躍 福神辯財天信仰が広まり繁栄したそして明治2年の神仏分離令後は黄金山神社に復古現在は黄金発見に因む金運、幸運、開運、招福の御神徳に福神辯財天の芸術面の御利益も加わり広く全国から篤く信仰を聚めている 社頭掲示板 |
黄金山神社 今から凡そ1260年前、聖武天皇の御世 天平21年(西暦749年)に、陸奥の国守百済王敬福が朝廷に黄金を献上しました。大仏建立に黄金を必要としていた天皇は大いに喜ばれ、年号を天平勝宝と改められました。 この史実は、我が国最初の産金として有名なことであり、この祝事に因み、同2年牡鹿連宮麿等が相議り国守に請願し、秀麗の地金華山に金を司る金山毘古神 (かなやまひこのかみ)・ 金山毘賣神 (かなやまひめのかみ)を奉祀し神社を創建したのが、金華山黄金山神社であります。 中古以来、神仏習合時代は 辯財天 (べんざいてん)を守護神として、別当寺を金華山大金寺と称し多くの信仰を集め、女人禁制を敷きました。 金華山大金寺は、平泉の陸奥守藤原秀衡公、石巻城主葛西三郎清重公等、時の権力者により多大の御寄進を受け、荘厳美麗を極めました。即ち、 東奥の三大霊場 (出羽三山・恐山・金華山)として修験者が次々と来山し、修行を積んだ者は、金華山信仰を各地で広めていったのです。また、金華山は、江ノ島・厳島・竹生島・天河と共に日本五大辯財天の霊地ともされます。 天正の乱の兵火による焼失後も、下野国岩倉の僧成蔵坊長俊(栃木県日光山の僧正)により大金寺は再興され、代々真言宗にて祭祀が奉じられました。その後、伊達政宗公を始め伊達家累代の熱心な崇敬のもと、年毎に隆盛をきたしました。 そして明治2年には、神仏分離令により、仏号を除き黄金山神社と復古し、女人禁制も解除されました。この際、御祭神も金山毘古神・金山毘賣神の二柱とし、頂上奥殿(奥ノ院)大海祇神社(おおわだつみじんじゃ)の御祭神には大綿津見神(おおわだつみのかみ)・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ 仏号・辯財天)外二柱が奉祀されました。 公式HP |
黄金山神社 今から凡そ1250年前、聖武天皇の御代天平21年(西暦749年)に、陸奥の国守百済王敬福が朝廷に黄金を献上しました。大仏建立に黄金を必要としていた天皇は大いに喜ばれ、年号を天平勝宝と改められました。この史実は、我が国最初の産金として有名なことであり、この祝事に因み、同2年牡鹿連宮麿等が相議り国守に請願し、秀麗の地金華山に金を司る金山毘古神・金山毘賣神を奉祀し神社を創建したのが、金華山黄金山神社であります。中古以来、神仏習合時代は辯財天を守護神として、別当寺を金華山大金寺と称し多くの信仰を集め、女人禁制を敷きました。金華山大金寺は、平泉の陸奥守藤原秀衡公、石巻城主葛西三郎清重公等、時の権力者により多大の御寄進を受け、壮厳美麗を極めました。即ち、東奥の三大霊場(出羽三山・恐山・金華山)として修験者が次々と来山し、修行を積んだ者は、金華山信仰を各地で広めていったのです。天正の乱の兵火による焼失後も、下野国岩倉の僧成蔵坊長俊(栃木県日光山の僧正)により大金寺は再興され、代々真言宗にて祭祀が奉じられました。その後、伊達政宗公が始め伊達家累代の熱心な崇敬のもと、年毎に隆盛をきたしました。そして明治2年には、神仏分離令により、仏号を除き黄金山神社と復古し、女人禁制も解除されました。この際、御祭神も復古し、金山毘古神・金山毘賣神の二柱とし、頂上奥殿(奥ノ院)大海祇神社の御祭神には木綿津見神・市杵島姫神(仏号・辯財天)他二柱が奉祀されました。 宮城県神社庁 |