川の合流点にあり。小山の頂。集落奥。賽銭箱は中の金が見える素朴なもの。参道は自然石の一枚板を敷き詰めてある。坂上田村麻呂が大同2(806)に木船明神を祀ったのがはじまり。 源義経が鎌倉を追われ平泉の藤原氏を訪れて途中のこと、朝からの歩きで疲れた義経たちは、ここでひと休みすることにした。昼食をとり、背負ってきた笈の中から柳の枝を取り出して道端に差し、その後義経たちは和渕神社にお祈りをし、平泉を目指して行ったと言われている。差した柳はその後増えて大変大きくなり、林となって続き、毎年春となると新芽がきれいに色づき、旅人や村人たちの目を楽しませたと言われている。 |
和渕神社 延喜式内社(牡鹿郡十座のうちの一座)で風土記御用書上げによると田村麿将軍大同2年(806)遠田郡箆岳へ十一面観音を、建立の節に和渕山本宮に「木船明神」を勧請したのがはじまりと、伝えられる。その後、和渕村の火災により別当屋敷とも類焼し、関係記録は焼出した。 又、産土神和渕神社の由緒と祭典について昭和17年10月日発行和渕神社氏子総代謹誌によると、大古香取神社の神船、常陸より八重の塩路に乗り牡鹿郡和渕山の西辺(船島)に着き、その東方に船を留め(船澤)山頂に「船澤山 猿霊 ( さだま ) 峠(樹霊峠)に宮柱を立て神様を祭祀したとも伝えられる。 年代勧請不詳 祭神 経津主神 同 武甕槌神 国大平( くにさだめ )の武神 同 大巳貴神 (大国主命) 国立( くにつくり )経営の神 同 □神( くららのかみ )蛇を除く神 昭和63年6月29日 河南町教育委員会 社頭掲示板 |