零羊崎神社
ひつじさきじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】零羊埼神社(名神大) 陸奥国 牡鹿郡鎮座

   【現社名】零羊崎神社
   【住所】宮城県石巻市湊牧山7
       北緯38度26分23秒、東経141度20分30秒秒
   【祭神】豊玉彦命
   【例祭】5月8日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】応神天皇2年創設
       貞観元年正月従四位下「三代実録」

   【関係氏族】
   【鎮座地】古く真野村の未ヶ崎に鎭座した
        寛永年間牧山へ遷座とも伝わる

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「白山神社」と称していた
   【参考HP】 零羊崎神社
   【社殿】本殿流造檜材鋼板葺
       拝殿・社務所

   【境内社】

牡鹿十座の筆頭に記載される名神大社で、拝殿は鷲峰山長禅寺(廃寺)の御堂であった。
社名は神功皇后から賜った涸満瓊別(ひみつにさけ)が零羊崎(ひつじさき)となった。
仏教と習合し鷲峰山長輝寺という山号で江戸時代神仏混淆の山であつた。
海抜250mの山頂にあり、集落迄近い所で2Kmある。
明治に神仏分離により牧山観音は明治3年(1870年)住職が復飾して「零羊崎神社」と呼ばれるようになった。


零羊崎神社

神功皇后三韓征討の時に此大神の御神託により御出征を決意せられ、又此の神の御守護によつて刃に血ぬらずして三韓を征服した。この御神徳を畏み各地に御鎭祀あらせられた神社の一つで、涸満瓊別(ひみつにさけ)神といふ名を賜り、東奥鎭護のため陸奥國牡鹿郡龍巻山に鎮祀せられた。社号は年を経て涸満瓊別が零羊峙といふ文字になり、龍巻山の龍は除かれて牧山となつた。仏教との習合が著しく、坂上田村麻呂が奥羽三観音の一つ牧山観音を勧請し、次第に当社を習合し、鷲峰山長輝寺という山号で江戸時代神仏混淆の山であつた。 拝殿は鷲峰山長禅寺の御堂であった。内部には『白馬の図』『黒馬の図』の二つの石巻市指定文化財の絵馬が奉納されている。市指定文化財の文化11年(1814)建立の宝筺印塔、県内唯一の石造相輪 (塔)(市指定文化財)など歴史的遺産・文化財が多く残されている。

式内社調査報告



零羊崎神社

神功皇后の勅願に依り東奥鎮護のため牧山(龍巻山)の地にこの神を鎮め祀るという。(社伝)爾来皇室をはじめ国司、領主の崇敬篤く清和天皇の貞観元年(859、平安)正月27日即位の大礼を挙げさせ給うに際し、京畿七道諸神に進階及び昇叙のことあり、惣267社陸奥国六社の一として郡内正五位下勲六等から従四位下に叙せられた。(三代実録)醍醐天皇延喜の制には国幣大社として名神に列せられ名神祭に預る。(延喜式)又、奥州平泉の藤原清衡の神宝献納、源頼朝よりの須賀の市諸役御免の制礼、葛西氏の社宝奉納、伊達家の社領寄進等があり、(社蔵文書)中世は葛西領七郷の総鎮守であった。祭事の盛大であったことは奥羽観蹟聞老志はじめ諸地誌に詳記している。現在の拝殿は、安永8年上棟の建物に昭和10年に、本殿、幣殿、瑞垣等は昭和3年から同17年の間に修改造したものである。明治7年4月郷社に、昭和17年9月県社に列せられた。

宮城県神社庁



零羊崎神社

今から1810年程前、応神天皇2年に神功皇后の御勅願により涸満瓊別神という名を賜り東奥鎮護のため牡鹿郡龍巻山(たつまきやま)にお祀りされました。
社号は年を経て零羊崎(ひつじさき)となり、龍巻山の龍は除かれ牧山となったのであります。
爾来皇室をはじめとして国司・領主の崇敬が篤く、貞観元年正月(1150年前)に正五位下勲六等より従四位下に位を進められ、1100年前の延喜の制には明神大社に列せられ明神祭にあずかり、朝廷より幣帛を奉られたのであります。
古より毎年4月8日、9月9日は大祭事と定められ、みこしを海岸に渡御し、「須賀の市」という市も催され大変な賑わいを呈したのであります。
また千石船は航海毎に当社に祈願し、今も全国の石巻入港漁船は海上安全大漁成就を、農家は五穀豊穣を、商家は商売繁盛を祈願し、高く尊い御神徳を蒙っております。
昭和21年制度の改革により国家管理を離れ宗教法人として、神社本庁所属となり、境内地7ヘクタール、氏子崇敬者数8000余戸を有し、益々御神威が昂揚されております。

由緒書



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