文政9年に、もと桜町にあつた稻荷小社を平藩主内藤氏が子鍬倉神社に比定し、現地に遷した。その社を子鍬倉神社と判断した理由は曲玉等の出土により古蹟と考えたからであろう。 現在の揚土台にあった牛頭天王社社域に遷座して子鍬倉神社とした。 |
由緒 当社は、旧県社で祭神倉稲魂命を祀り衣食住の神として又、平の町の氏神様として尊崇されている。 子鍬倉神社の社名は、日本全国ただ一社だけの社名であるばかりでなく、「子」は蚕を意味し、当地方でも養蚕の盛んな時代には蚕を「お子さん」と呼んで大切にしていたように「衣」を代表する言葉である。「鍬」は農具を意味して「食」を代表し、「倉」は古代に於ける物品出納の場所で経済即ち「住」を意味して「子鍬倉」の御社名は正に「衣食住」を代表するに相応しい社名であり、よく御祭神の神徳を表現した尊いいわれのある名前である。 創建は古く、平安時代第51代平城天皇の大同元年(西暦806年)と伝えられ、第60代醍醐天皇の御代の「延喜式」の神名帳に当神社の名があり、これは「式内社」と呼ばれ由緒ある古い神社と称せられ式内社磐城七社の一つである。又古くは磐城四郡の総鎮守と称せられ、平城三社の一つとしても歴代の平城主の厚い尊崇を受け神領の寄進を受けていた。 明治6年3月に全国的に社格制度が実施され、当時磐前県は当神社を県社の第一号に指定した。これにより氏子民は地方神社の最高峰として尊崇の誠を捧げ、社格制度の廃止となった現在においても「県社」の愛称で親しまれているのは是所以である。 当社は古来平桜町(現在の磐城女子高校内)に鎮座したが、慶長7年(1602年)平城主鳥居忠政公が平城を築くに当たり社地を収め神社修復を怠り荒廃するに至った。その後平城主内藤公は敬神の念篤く、由緒ある当神社の荒廃を嘆かれて現在の揚土台に社地を賜り復興させたのである。しかし、天保2年4月(1831年)火災の為に神殿・古文書・神宝など殆どを焼失し、現在価値ある古文書・神宝などがないのが残念である。その後、嘉永6年5月(1853)官民協力して社殿を復興させ、その当時のものとして現在の本殿と額殿(旧拝殿)が現存している。その後順次境内を整備し現在の拝殿・幣殿は昭和4年建築のものである。 例祭は新暦の4月18日に祭典が行われ、4月の最終土曜日・日曜日に神輿渡御が行われている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |