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境内社殿の南側には、海蝕の跡を残す奇巖奇石が屹立して、昔この辺一帯は、入江になつていたことがわかる。 また、磯山とも明神山ともいう岩石重畳の小丘あり、磐座と考えられる。 当社は、『住吉大社神代記』の「九大神宮所在九箇処」(うち式内四社)のうちには掲げられていないが延喜式神名帳記載の住吉神社7社(対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥)の一社である。 したがって、天平3年以降、延喜式成立以前に創建されたと思える。 |
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住吉神社 御由緒 人皇12代景行天皇の代に時の大臣武内宿根が勅命を奉じて東北地方を巡視した折り、この地が海陸共に要害の地であり東北の関門に当たるので航海安全と国家鎮護のため東北の総鎮守として祀られた。 社頭掲示板 |
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住吉神社 当社は延喜式内社(延喜年間、西暦901〜923年に作成された書物に記録されている神社のこと)であり、全国住吉七社の一社にも数えられています。 建内宿禰(たけのうちのすくね)が創立し、祈願したとの古伝があり、東北一の社(やしろ)として崇敬された、最も古い神社の一つです。 寛永18年(西暦1641年)に改築された本殿は昭和33年に県の重要文化財に指定されています。 南方より住吉神社の杜を望む 福島県いわき市小名浜は先史時代には海湾でした。その湾内にあった小さな岩山が海食の跡を残して現在も存在しています。古代において遠方への旅は船によることが多く、この岩山は当時船を出していた人々にとって灯台と同じような役割を果たし、帰るべきところの目印、生活を守る大切な存在でした。やがて岩山は神格化され、その麓にお社(やしろ)が祀られるようになったと言われています。 第12代景行(けいこう)天皇の御代に、時の大臣(おおおみ)建内宿禰(たけのうちのすくね)が勅命を奉じて東北地方を巡視したことがありました。その時、この住吉が陸と海との要害の地であり、東北の関門にもあたるので、武内宿弥により当社は航海安全と国家鎮護のため東北総鎮守として祀られました。 第70代御冷泉(ごれいぜい)天皇の康平7年(西暦1064年)には、朝廷が勅使をお遣わしになって、東国の賊徒の平定を御祈願になりました。また、源頼義(みなもとのよりよし)は源家の宝刀鵜の丸の剣(うのまるのつるぎ)を献じて武運を祈念されたと言われています。 当社は朝野の崇敬厚く、鎌倉幕府は数千貫の社領を寄進しています。また、豊臣秀吉の時代は70石の神領が認められ、徳川時代は20石の朱印地を所有していました。 社殿より参道を望む 江戸中期には平藩の領主であった内藤家においてお家騒動などが続き、その原因が平城を睨んで建つ当社にあるとされ、社殿の向きが変えられました。その時に内藤家より幅5間長さ200間の参道が寄進されました。現在も道路として残る参道は馬場とも呼ばれ、馬の訓練に使用できる真っ直ぐなものです。この道路に沿う町を新町と言い、従来の北側の参道沿いを大町と言います。北側の参道は狭く、また少し曲がっており、成立した歴史的経緯を十分に理解できます。 明治時代になると国家神道の隆盛に伴って当社も発展しました。しかし、住吉の地は藤原川と矢田川に囲まれたところにあり、それらの川の度重なる氾濫により経済的には恵まれませんでした。そのような状況から、明治、大正時代の当社の神職に常駐する専任者はおらず、近隣の湯本に鎮座する温泉神社の神職が兼務し、昭和の初期に至りました。その後、社掌として渡邊繁が着任して戦後宮司となり、昭和32年本殿が大改修され翌年には県重要文化財に指定されるなど、現在に至る発展の基礎が確立されました。 当社は延喜式内社(延喜年間、西暦901〜923年に作成された書物に記録されている神社のこと)であり、平安時代には既に現在の場所に社殿を有し、それから移転することなく今日まで至った神社です。全国に住吉神社は多くありますが、当社は全国住吉七社の一社に数えられています。また、御祭神は同じですが、大阪の住吉神社から後世分社したというものではなく、独立した神社です。 御祭神 住之江三神(すみのえさんじん) 表筒之男命(うわつつのおのみこと) 中筒之男命(なかつつのおのみこと) 底筒之男命(そこつつのおのみこと) 住吉の大神様(上記の三柱の神様)はさまざまな御神徳をお示しになられます。 厄祓い・清祓い 住吉の大神様は、イザナギノミコトが黄泉(よみ)の国に退(まか)ったイザナミノミコトのうじ虫たかれる姿を見た時に受けた穢(けが)れを、筑紫の日向の小戸の檍原(あはぎはら)の海で禊(みそ)ぎした際にお生まれになられました。 この穢れとは汚穢(おわい)や不浄ならず一切の正常でない状態を指しており、このようなご誕生の様から、大神様は厄祓い・清祓いの御神徳をお示しになると考えられています。 厄年の厄除け、忌年の厄祓い、諸々のわざわい・ケガ等が続くことへの清祓いなどのため、大神様の御神徳を求めて古くより多くの人々が訪れています。 出世・学問 住吉の大神様は和歌三神筆頭に挙げられており、白髪の老翁に姿を変え度々世に現れて数多くの和歌を詠まれています。 その昔唐土の白楽天が、日本の知恵を試そうとやって来たときに、目前の景色を見て 『青苔衣を帯びて巌の肩にかかり 白雲帯に似て山の腰をめぐる』 (衣のように見える青苔は巌の肩あたりにかかっており、山の中腹には帯に似た白雲が山をめぐるように取り巻いている。非常に美しい光景である) と歌ったところ、漁夫に化身した老翁(大神様)が即座に 『苔衣着たる巌はさもなくて きぬ着ぬ山の帯をするかな』 (苔の衣をまとった巌はそれほどでもないが、青々とした衣を着た山が白い雲の帯をしているのは非常に美しいものです) と歌って返しました。これを聞いた白楽天は、貧しい漁師であってもこのような素晴らしい歌を詠む日本の国に恐れをなして逃げ帰ったと言われています。(これは謡曲にある話です) 和歌は学問と同一と見なされ、出世には最も必要とされるものでした。そのため、大神様は学問の神として、また出世神として崇敬され、初宮詣、受験、進入学等のおり近郷近在より多くの参詣があります。 なお、謡曲高砂(たかさご)に出てくるように、大神様は芸能神としての一面も持ち合わせています。 交通安全・海上安全 神功(じんぐう)皇后の三韓征伐のおり、幾多の困難に遭われるたびに住吉の大神様が現れて助けられ、見事新羅を征して無事に帰り着くことができました。 このようなことから大神様は海の神として崇敬されてきました。したがって、海神として航海安全の神としても、霊験あらたかです。 安産 やはり三韓征伐のおり、産月間近な神功皇后の玉体を守り無事に応神(おうじん)天皇がお生まれになりました。 このことが大神様の御神威の賜として広く崇敬を集め、今日に至るまで、安産の神として崇められています。また、子供の健やかな成長を祈願して、満1歳の時の大祭にお詣りする子育(こだち)まいりが知られています。 商売繁盛 往時の諸外国との交易には船が用いられましたが、大神様の守りにより安全に航海することができ、商業がたいへんに発達しました。このことから大神様は商業繁栄の神ともされています。 摂社 八幡神社 神社の起源は自然崇拝時代における磐境(いわさか=岩石などで周りを囲んで祭祀の場としたところ)や神籬(ひもろぎ=常緑樹などを神のよりしろとして祭祀を行う)などであり、それが鳥居や社殿を持つ現在の姿へと発展していったと考えられています。当社も、神格化された岩山の麓に祀られたお社(やしろ)から発展してきたと考えられます。 神社の多くは初めに本殿が建てられ、次にこれを拝する拝殿、そして幣帛を捧げる幣殿等が作られてきましたが、当社も例外ではありません。岩山の麓には御神体を奉安している本殿を中心にして、拝殿、祗候殿などの建築が並んでいます。 境内の広さはおよそ1万uあり、四季折々に目を楽しませてくれる豊かな自然に包まれています。 当社の大祭は、旧暦で、春は2月12、13日、夏は6月12、13日、秋は9月12、13日でした。春は農機具の市が立ち、種や道具が売られたとのことです。長い冬が明け農耕の準備です。夏は田植えの祭です。神田においてお田植え祭が行われてきました(戦後の農地解放によりなくなりました)。秋は稔りを得た感謝の祭です。 現在は、春の祭は祈年祭として、また夏は蝗祈祷(むしぎとう)祭として共に神職総代の手により毎年行われています。 秋の祭は新暦の採用以降、10月に行われています。現在は13日本祭に最も近い(金)(土)もしくは(土)(日)に行われ(平成16年度については決定次第本ページに掲載)、遠近より多くの人々が訪れます。勅使参向式、流鏑馬、巫女舞などの神振行事が同時に催されます。 絵馬「鬼と力士の首綱引き」 市指定重要文化財 神額 元帥東郷平八郎 筆 狛犬一対 平安時代。作者不詳。木製、漆塗り 日本刀 伝 鵜の丸の剣 今村仁平伝記(絵巻物) 牧島如鳩 筆 御神鏡 寛永20年(西暦1643年)。青銅製。領主内藤家からの寄付 龍の彫り物 相当以前の向陵か隅木と考えられますが、この彫り物には次のような伝説があります。 昔、日照りが続き村人たちがたいへん困っていました。そこで雨乞いをしようと住吉の大神様を御輿に乗せ浜へ渡御しました。一方で神社に残った村人は本殿より龍を持ち出して雨乞いをしました。すると、急に空がかき曇り大洪水となりました。そのころ帰る途中の御輿は、大原あたりで胸元を超える洪水となり、担いでいた村人は神輿を放り投げ、這這の体で逃げ帰ってきました。そして当然ながら村中が大騒ぎになりました。ところが、しばらくすると数十頭のイノシシが神輿を担いで社殿に納め、雨は止み洪水も収まりました。 この出来事以来ここ旧玉川地区の人々は猪肉を食べてはいけないとされて、現在でも村人はそれを守っているそうです。また、この龍の彫り物もそれ以来決して外に出すことはありません。 その他 乗鞍2個など 社頭掲示板 |
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住吉神社 福島県いわき市小名浜は先史時代には海湾でした。その湾内にあった小さな岩山が海食の跡を残して現在も存在しています。古代において遠方への旅は船によることが多く、この岩山は当時船を出していた人々にとって灯台と同じような役割を果たし、帰るべきところの目印、生活を守る大切な存在でした。やがて岩山は神格化され、その麓にお社(やしろ)が祀られるようになったと言われています。 第12代景行(けいこう)天皇の御代に、時の大臣(おおおみ)建内宿禰(たけのうちのすくね)が勅命を奉じて東北地方を巡視したことがありました。その時、この住吉が陸と海との要害の地であり、東北の関門にもあたるので、武内宿弥により当社は航海安全と国家鎮護のため東北総鎮守として祀られました。 第70代御冷泉(ごれいぜい)天皇の康平7年(西暦1064年)には、朝廷が勅使をお遣わしになって、東国の賊徒の平定を御祈願になりました。また、源頼義(みなもとのよりよし)は源家の宝刀鵜の丸の剣(うのまるのつるぎ)を献じて武運を祈念されたと言われています。 当社は朝野の崇敬厚く、鎌倉幕府は数千貫の社領を寄進しています。また、豊臣秀吉の時代は70石の神領が認められ、徳川時代は20石の朱印地を所有していました。 社殿より参道を望む 江戸中期には平藩の領主であった内藤家においてお家騒動などが続き、その原因が平城を睨んで建つ当社にあるとされ、社殿の向きが変えられました。その時に内藤家より幅5間長さ200間の参道が寄進されました。現在も道路として残る参道は馬場とも呼ばれ、馬の訓練に使用できる真っ直ぐなものです。この道路に沿う町を新町と言い、従来の北側の参道沿いを大町と言います。北側の参道は狭く、また少し曲がっており、成立した歴史的経緯を十分に理解できます。 明治時代になると国家神道の隆盛に伴って当社も発展しました。しかし、住吉の地は藤原川と矢田川に囲まれたところにあり、それらの川の度重なる氾濫により経済的には恵まれませんでした。そのような状況から、明治、大正時代の当社の神職に常駐する専任者はおらず、近隣の湯本に鎮座する温泉神社の神職が兼務し、昭和の初期に至りました。その後、社掌として渡邊繁が着任して戦後宮司となり、昭和32年本殿が大改修され翌年には県重要文化財に指定されるなど、現在に至る発展の基礎が確立されました。 当社は延喜式内社(延喜年間、西暦901〜923年に作成された書物に記録されている神社のこと)であり、平安時代には既に現在の場所に社殿を有し、それから移転することなく今日まで至った神社です。全国に住吉神社は多くありますが、当社は全国住吉七社の一社に数えられています。また、御祭神は同じですが、大阪の住吉神社から後世分社したというものではなく、独立した神社です。 公式HP |
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住吉神社 延喜式内 東北一社 住吉神社略記 御祭神 住之江三神 表筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 御由緒 人皇12代景行天皇の御代に時の大臣武内宿弥が勅命を奉じて東北地方 を巡視した折、この地が海陸共に要害の地であり東北の関門に当るので航海安全 と国家鎮護のため東北の総鎮守として祀られた。 御神徳 厄祓いの神 清祓いの神 御祭神は竜宮に坐します海の神でありまして常に潮満玉と潮干玉 をお持ちになり、参拝者の願いは潮満玉の霊妙な働きを顕現し、潮干玉を 以って禍(厄)を祓いご守護下さるといわれております 出世神 学問芸術の神 和歌三神(住吉社 天満宮 玉津島社)の一柱に数えられており、学問芸術 の神として、また出世神として初宮詣受験進入学等のおり近郷 近在より多くの参詣があります 交通安全 海上安全の守護神 神功皇后の三韓征伐のおり航路の安全を護り、海が大時化になると 舳先に現れて無事凱旋することができたところから海神として航海安全の神 として霊験あらたかであります 安産の守護神 同じく三韓征伐の折りは、産月間近な神功皇后の玉体を守って安産の霊験 をあらわされ無事応神天皇を出産され、そのことが住吉の大神の御神威 の賜として広く崇敬をあつめております 商業繁栄の神 商売繁盛の神 三韓征伐は矛を使わずして諸外国に稜威を示すこととなり、年々貢ぎ物の 使者が我が国を訪れるようになり、そのため商業の道が拓かれました。よって 商業繁栄の神、商売繁盛の神として広く崇敬をあつめております。 例大祭 10月12日 13日の両日 (現在の十月の第二日曜日とその前日に神振行事を行う) 神事 勅使参向式 流鏑馬式・浦安の舞 境内の名勝 生木の橋、幽境、臥龍銀杏、磯山(蓬莱山とも云う)、月見の池 摂社 八幡神社(神功皇后)を祀る 社頭掲示板 |
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住吉神社 福島県指定重要文化財(建造物) 住吉神社本殿一棟 (付)棟札、木簡八枚 昭和33年8月1日指定 所在地 いわき市小名浜住吉 所有者 住吉神社 当社は延喜式内社で、タケノウチスクネが奉祀したと伝えられる 本殿は三間社(正面四・七メートル、側面三・一メートル) の流れ造りで、棟札によると、寛永18年(1641)に 当時の泉城主の一族内藤氏によって再建され、元来 北向きに建てられていたのを貞享元年(一六八四)に東向き にかえたという。 正面中央一間は板唐戸、円柱の上下・大瓶束・本殿や向拝の 軒組みなどはほぼ禅宗様になっているが、正面両脇の 柱間をはじめ、側壁・三方欄間・脇障子にはめこまれた花獣・ 四天王などの厚肉の彫刻や大瓶束・円柱に付した獅子、 あるいは手挟みなどの彫刻はほとんどが後補のものと みられる。幣殿と拝殿は近年の改築である。 江戸時代初期の本県の神社建築のひとつの様式を知る上で、 貴重な建造物である。 社頭掲示板 |