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東流する滑津川中流域右岸の低丘陵の先端に位置する、この丘陵を「佐加麻久嶺」とする説がある。 中世所在・祭神が不明になつたが、領主内藤義泰・義孝によつて、探索考証され元禄以降に比定された。 神木として、杉や檜・樫・槻・椴・松などの巨木あり、特に杉の木一本は、大人五〜六人で手をひろげてやつと回るような、いわき一の巨木である。 |
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佐麻久嶺神社 延喜式内 岩城七社之一社 佐麻久嶺神社 御祭神 五十猛命・神八井耳命 勧請 慶雲元年(704) 御父神素盞鳴命と共に日本武尊国土に木々、草の種を蒔、田畑山岳緑化に功績を残された神である。 現在(昭和60年)まで1280年の歴史があり、その間氏子崇敬者に依り祭典諸祈願祈祷が行われています。 社頭掲示板 |
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佐麻久嶺神社 五十猛命(いそたけるのみこと)は須佐之男命(すさのおのみこと)の御子で別の名を大屋毘古命(おおやびこのかみ)と云う。 由緒記によると、紀伊国名草郡日前国懸大神(きいのくになぐさぐんひのくまくにかかすのおおかみ)の分身で、佐「伊佐於志」の上下を略した功の意、「麻久」は蒔で嶺は「美称」である。 五十猛命が紀州に天降り、多くの木種を将(もち)い、大八洲国の内、田畠、山丘に蒔き施し造化を扶助して天下に大功をたてたので、その功を褒め称えた神である。 従って山神、農神そして種子を蒔いたことから、「事始めの神」とされている。 昔、桓武天皇の延暦年(782〜806年)中、坂上田村麻呂が東征の際、武運長久を祈って薄磯の海浜において潮垢離(しおごり)の神事が行われ、そののち源義朝、足利尊氏、徳川家康等が祭使を派遣して神事を執行された。 応仁の乱(1467年)の頃、神官中山彦次郎(小野氏の祖で一時は中山領主)は、戦争にまきこまれ祭事を廃し、旧記や神領等悉(ことごと)く失ったので、その娘が一時、矢田村へ家を移し、神を勧請して、茲(ここ)に郷民が社を建てた。 ところが、神霊は旧社を慕って毎夜中山の嶺に光を放つので、時の村主植田平六はこの噂をいやがり、社をとりこわしてしまった。彼の子孫は神の怒りにふれて滅亡したと云う。その後、旧知に社を遷したが、天和2(1682)年3月、雷火にあって焼失したので平城主内藤義泰は翌年8月に再建し、山林一町歩を寄進して祭祀に供し、今日に至る。 伝えられるところ、境内南下に神宮寺跡と称する畑がある。 元来、旧4月7日に祭典が行われたが、昭和34年より新暦5月5日に変更された。 公式HP |
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総鎮守 延喜式内 佐麻久嶺神社 五十猛命をまつる慶雲元年4月(西暦704年)勧請で神名帳磐城七社の一つである。 御父神、素盞嗚命と共に日本の国土に木草の種子を蒔き田畑、山岳等造化に功績を残された神である。 当神社の旧屋根は急勾配の萱葺で千木がそびえる特徴のある社殿であった。昭和50年10月ふき替、改修された。 又当神社には、旧飯野村出身の戦没者百十五柱の英霊を祀る忠魂の碑が建てられている。 おりしも平成13年は西暦2001年、平成16年は勧請されてから1300年、記念すべき年とうけとめ、ここに村田知義氏のご好意により神輿一基、御宝蔵(みこし庫)一棟、石造りコマ犬一対を含めた記念碑を建立するものである。 平成13年1月1日 寄贈者 いわき市平谷川瀬仲山町4−7 村田知義 平中山字赤四番地在 村田家三代当主 村田丑蔵三男 社頭石碑 |