二俣八幡宮として知られている。 旧社地は、現小川町広畑(夏井川左岸、現二俣社の西北1km余)であるという。 中世には廃絶していたのを天和2年9月城主内藤左京大夫義泰現地二俣岡に再建。 あるいは、天和年間、二森明神と呼ばれていた当社を式内社二俣神社に比定したとの伝承もある。 |
由緒 当社は祭神品陀和気命を祀り、勧請は貞観2年、延喜式内社の二俣神社と称す。 正應2年、小川入道源義綱公再建、田反別4町8反歩寄進除地。 天和2年9月12日水災の為、領主内藤左京太夫義泰公、二俣岡に遷座。社地1町4反4畝余りを旧地の代地として寄進、除地として社殿造営。 元禄11年内藤能登守義孝公、社領社殿を修補。その後の領主代々社殿造営修補。御供米1石2斗、祈祷料として金7両宛毎年領主より賜る。明治一新前迄奉献。 明治に至り社格郷社に列せられ、延喜式内郷社二俣神社と称す。 今時戦後昭和22年、郷社の称号を廃し宗教法人二俣神社と称す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
二俣神社 (1)当社は二俣川(夏井川)の川上八幡宮と称し、延喜式神名帳に記載される二俣神社である。 (2)正徳2年小川入道義綱公、社殿を再建し、田反町四町八反歩を寄進し社領とする。 (3)天和2年9月13日当社、年々水害に遭うため、領主内藤左京大夫義泰公が二俣岡(現在地)に社殿を造営。 (4)元禄11年内藤能登守義泰は社領・社殿を修補し、その後代々の領主崇敬厚く、造営修補は勿論のこと、御供米として米一石二斗、祈祷料金七両宛、毎年領主より賜る。 (5)弘化2年井上河内守正春公は封を転じられ(所替)以来祈祷料は無くなったが、御供米は明治御維新まで賜られた。 (6)明治に至り社格郷社に列せられ、延喜式内二俣神社と称し今次大戦終焉後、社格廃止により郷社の称号が無くなった。 昭和56年12月13日 二俣神社遷宮300年記念事業実行委員会 宮司 上平孝秀 謹書 社頭掲示板 |