大国魂神社
おおくにたまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】大国魂神社 陸奥国 磐城郡鎮座

   【現社名】大国魂神社
   【住所】福島県いわき市平菅波宮前54
       北緯37度3分9秒、東経140度56分23秒
   【祭神】大己貴命 事代主命 少彦名命
       『大日本史』大物主神

   【例祭】5月3日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】大同2年(807)再建
       観応3年(1252)4月・同5月禁制あり
       大永2年(1522)平(岩城)由隆によつて再興
       慶長5年(1600)補葺
       延宝7年(1679)内藤義概再建
       元禄7年(1694)内藤義孝補葺
       同14年本殿・拝殿修理
       元治2年(1865)正一位
       明治12年郷社
       大正12年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元来この地に鎭座していたものと考えられる

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 大国魂神社
   【社殿】本殿入母屋造
       幣殿・拝殿・神樂殿・宝庫

   【境内社】

桓武天皇の延暦年間、征夷大将軍坂上田村麻呂が勅を奉じて東夷を征伐したとき鎮祭。
この地域は県内有数の古墳地帯でもあり、さらに夏井廃寺跡等もあり、古くから開けた地域であり、元来この地に鎭座していたものと考えられる。
境内飛地として、東およそ250mの田圃の中に、直径27m、高さ8.2mの甲塚と称する円墳があり。築造推定年代は、遅くとも、5〜6世紀頃で、国造武許呂命の墳墓とする古伝がある。大正12年に国の史蹟天然記念物に指定されている。


由緒

当社は、いわき市平菅波に鎮座しており、大己貴命、事代主命、少彦名命をお祀りしている。
養老2(718)年、朝廷は石城国を置きました。現在の浜通り地方全体が一国となりました。石城国の中心地域は、いわき市の豊間、高久、夏井であったのです。この地域はそれ以前から文化が栄え、中田横穴、八幡横穴、天冠男子像埴輪、夏井廃寺塔跡、根岸遺跡、そして、当社飛地境内の甲塚古墳などが知られています。古代の人々は、美わしい国土に宿る霊力を国魂神として讃え、お祭りしていました。石城国造建許呂命(いわきのくにのみやつこたけころおのみこと)の一族によって、奉斎されたのが大國魂神社であります。 甲塚はこの国造の墳丘であるといわれます。石城国はやがて陸奥国に編入され、この地域は岩城郡に属することになりました。醍醐天皇の御代に撰修された延喜式神名帳には、岩城郡七座として、大國魂、二俣、温泉、佐麻久嶺、住吉、鹿嶋、子鍬倉の各神社名を記しております(927年)。岩城郡の郡司が奉斎する神社として、大國魂神社は、崇敬されていたのです。
鎌倉時代になると、地頭岩城氏の一族国魂氏(国魂村地頭)が祭祀権を掌握し、さらに南北朝時代には、神主山名氏が、平窪、矢野目、国魂三村を領有し、「大國魂大明神祭礼以下神役勤仕」したことがわかります。室町時代には、領主岩城氏によって社殿の大造営が行われ、江戸時代には平藩主による修復が重ねられました。当時、神主、下社家、巫女あわせて二十数人が奉仕していたといわれます。幕末の元治2(1865)年には朝廷より「勅宣正一位」の神階を授かりました。明治12(1879)年、郷社に加列し、大正12(1923)年に県社に加列されました。
主な社宝として、次のものが伝えられております。
国魂文書一巻(県指定重要文化財)
国魂石室記一軸
石室出土品鬼角、管玉
神輿二基(平藩主内藤家、安藤家寄進)
勅宣正一位大國魂大明神一幅、関係文書
内藤政栄公(俳号露沾)献詠和歌、俳諧
神社明細帳一冊(宝暦6年)
豊間浜関係文書二通(天明5年)
棟札、木簡二十八枚

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大国魂神社

おおくにたまとはうるわしい国土に宿る霊力をいい、国土の安泰と繁栄を守る神として千百年前より、くにぐにの要所良き所に奉祭されてきた。当神社もそのようにして祀られてきたのである。大国主を主神として大族長たる石城国造によって創建された甲塚は古伝によれば国造建許呂命を祀る墳丘である。
醍醐天皇の御代官社に列しいわゆる延喜式内社として陸奥国岩城郡内7社の首座にあげられた。爾来代々の領主の篤い保護崇敬のもとに社殿の造営修復を重ねてきた。
江戸時代は平藩内藤安藤両藩主により寄進された。
元治2年朝廷より正一位の宣下を受け、大正12年には県社に列した。
氏子は菅波・山崎・荒田目の三大学区民であり県内外多数の崇敬者をあつめている。
昭和52年11月吉日

社頭掲示板



大国魂神社

今を去ること、およそ1300年前、養老2(718)年に石城国がつくられました。石城国府は、大國魂神社の東南方2Kmにある根岸遺跡に置かれていたと考えられています。
 朝廷は石城国のまほろば(聖なる地、真秀羅場、枢要なる霊地)の森に、大國魂神をお祭りしました。当時の日本60余の国ごとに、この神様をまつることによって、国の富勢と安泰を祈ったのです。
 大國魂神社の周辺は古代文化の栄えた地であり、中田横穴古墳(沼ノ内・国史跡)、八幡横穴(平高久・市史跡)、天冠男子像埴輪(平下高久出土・国重文)、夏井廃寺跡(平下大越・県史跡)、根岸遺跡(平下大越・石城郡衙跡に比定)、砂畑遺跡(平菅波)、小茶園遺跡(平山崎)、そして当神社飛地境内の甲塚古墳(平荒田目・国史跡)などが知られております。甲塚は石城国造の建許呂命の墳丘であるといわれます。
 石城国はまもなく陸奥国に編入され、この地域は磐城郡に属することになりました。
 醍醐天皇の御世に撰修された延喜式・神名帳には、磐城郡七座の首座として記されております(西暦927年)。
 鎌倉時代になると、地頭・岩城氏の一族、國魂氏(國魂村地頭)が祭祀権を掌握し、さらに南北朝時代には、神主・山名氏が、平窪・矢野目・國魂三村を領有し「大國魂大明神祭礼以下神役勤仕」したことがわかります。
 室町時代には、領主・岩城氏によって社殿の大造営が行われ、江戸時代には磐城平藩主による修復が重ねられました。
 当時、神主・下社家・巫女あわせて二十数人が奉仕していたといわれます。
 幕末の元治2(1865)年には朝廷より「勅宣正一位」の神階を授かりました。明治12(1879)年、郷社に加列し、大正12(1923)年には県社に加列しました。

公式HP



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