若宮八幡神社境内左手に鎮座している。 源頼朝若宮八幡を祀るときに、この神の宮殿も再興して社領を献じた。 敷玉早御玉神社は若宮八幡神社の西に鎭座したものと思われる。 その後兵乱のため社殿悉く灰燼に帰す。爾來久しく社址のみ存し、郷人これを「敷玉森」と呼んでゐた。 旧境内は現在の堤防の外(河川敷には奈良平安時代の遺跡が包含されている)にあり、大正13年鳴瀬川河川改修に伴い現境内(旧別当寺跡)に移転し今日に至る。 平成3年(1991)に分祀され、現在は、境内摂社として独立した社殿に祀られている。 |
若宮八幡神社由緒 若宮八幡神社由緒 本社若宮八幡神社 鎮座地 宮城県志田郡三本木町新沼字若宮113番地 御祭神 主祭神 第15代應神天皇(譽田別尊)第16代仁徳天皇(大鷦鷯尊)神功皇后(息長帯比売命) 配祀神 建御名方命 木花咲耶姫命 武内宿禰命 御由緒 後鳥羽天皇の御宇文治5年(1189)鎮守府将軍右大将源頼朝公奥州藤原泰衡を平定し凱旋の折り敷玉早御玉神社の近地内を清め鎌倉鶴岡八幡宮の御分霊を奉齋し奥羽鎮護の神として創建された社殿の建立は畠山重忠武田太郎の両武将監督のもとに進められ創建当時の社殿は七間四面・布目瓦葺の社殿で最も荘厳を極めたという 別当には奥州平定に参加した渋谷荘司重国の子渋谷三郎時国を剃髪せしめ名を宥全と改め別当寺を建立亀谷山穏城寺と号称 世襲別当とし今日に至る 天正16年(1588)当社別当第21代渋谷永豊の時代伊達政宗が大崎氏を攻めるに当たりその兵燹にかかり社殿・別当寺・僧房悉く灰燼となり一時祭祀も途絶えたこともあったが兵乱が治まり世が太平に及び社殿を再建立別当も復職し祭祀を再興し社領(旧村十ケ村)も定まり旧に復すことができた寛政13年(1801)別当37代渋谷瑞芳のとき先の小社殿を改建更に別当四41代渋谷長盛にいたり安政2年(1855)9月19日現社殿落成遷座の盛儀を齋行し今日に及ぶ明治3年(1870)村社に列しのち郷社敷玉早御玉神社を合祭昭和18年(1943)郷社に列す 現在は社格は無く諸社と称されている なお旧境内は現堤防の外(現河川敷・奈良平安時代の遺跡が包含されている)にあり大正3年(1914)鳴瀬川河川改修に伴い現境内(旧別当寺跡)に移転し今日に至る 摂 社 延喜式内社 敷玉早御玉神社 御祭神 豊玉姫命 玉依姫命 御由緒 第12代景行天皇12年(83)皇子日本武尊東夷征討し凱旋の折り征途の途中荒狂う海で后弟橘媛が海神の怒りを鎮めんとして海中に身を投じ尊が無事相模灘を渡られたことに思いをいたし慰霊の思召しにより海神である二柱の神を祀り建立された神社で延喜式神名帳(905)に名神小社として登載されている延喜式内の神社である後寶亀11年(780)藤原小黒丸により戦勝を感謝し社殿を再建立したが天正年中の兵乱により若山八幡神社とともに焼失し以後社殿の建立がなく「敷玉森」としてその名を止めていたがその滅失を憂い文政元年(1818)別当第40代渋谷秀盛が社名と縁起を刻し石碑を建立した現在敷玉社本殿に奉齋され若宮と同時に祭祀がおこなわれている この神社が奉齋されてあったことが此地に若宮八幡神社が創建奉齋される動機となったと伝えられている所謂此地の先覚神ともいえる明治5年(1872)郷社に列し明治38年(1905)社殿再建立の計画を願い出たが実現できなかった昭和18年(1943)に若宮八幡神社に合祀されてあったが歴史現在社の消滅する事を憂い平成3年(1991)今上天皇御即位の佳年を機に再び分祀攝社として奉齋 光輝ある歴史を永劫に傳えることとした 祭 日 春季例祭 旧4月15日 秋季例祭 旧9月19日 (旧9月18日前夜祭には特殊神事湯花神事が行われる・宮城県祭調査に登載) 文化財 湯花神事(三本木町無形文化財・昭和54年指定第一号) 中世結衆板碑・元亨2年(1322)銘(三本木町有形文化財平成5年指定第一号) 境内社 神明社 稲荷明神社 蘆穂山(石神)高倉招魂社 社頭掲示板 |