白和瀬神社
しらわせじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】白和瀬神社 陸奥国 信夫郡鎮座
          (奥宮)白和瀬神社奥宮

   【現社名】白和瀬神社
   【住所】福島県福島市大笹生折戸41
       北緯37度47分45秒、東経140度23分29秒
   【祭神】神日本武尊
   【例祭】4月第2日曜日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】大化元年(645)鳥帽子嶽の頂上に鎭座
       天正年間(1573〜91)現在の折戸(居都)に遷
       明治4年白和瀬神社と改称
       明治5年村社
       昭和2年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】大化元年(645)鳥帽子嶽の頂上に鎭座
        天正年間(1573〜91)現在の折戸(居都)に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「白和瀬大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造柿葺
       拝殿・幣殿

   【境内社】車松神社

社名の起こりとして@鳥帽子岳麓より流出する八反田川(白淡川)が常に白泡を漂わせる。A稻の品種としての白早稻。の2種がある。
北西2Kmの鳥帽子ヶ岳の頂(標高475m)が当初鎮座の地であり、石祠が残っているという。


由緒

延喜年中日本の有名神社を選定、全国で3132社が定められ陸奥に100座が指定されたとき、この信夫の郷(伊達郡は後に信夫より分かれる)に5社が定められました。勧請は、人皇36代孝徳天皇(西暦545年)の御代大化元年、上大笹生村鳥帽子森山頂上に鎮座されました。しかし、地勢が急峻で容易に登ることができないため、参拝者の便を図って天正年中(1580年代)現在の折戸の地に遷座し祀り今日に至りました。由緒正しき当神社は、大正13年春、村社から一躍県社昇格の報告を受け、当神社の由緒からみると県社以上の資格があるとのことでしたが、維持管理容易でなく、県社に甘んじざるを得ませんでした。白和瀬の名は、信達一統志によると万葉集下総の歌の家持が歌集に「早田ト作レリ愚案ズルニ 白淡川ノ水上ニ鎮座ス神ナレバ白淡瀬ナルベシ アハノアハヲ約シテ白和瀬ト唱ヘ来リシナラム」とあり、又白早稲と稲からでたという説もあります。いずれにせよ1330年余の歴史を持つ古き神社であると共に、延喜式内の信夫5社でも社地、社史明確な社として郷土史でも注目されます。当神社は五穀豊穰、商売繁盛、特に火難(盗難事故等)除の神として多くの人々に崇拝されてきました。車松神社(白和瀬神社末社)御祭神 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)境内には安産の守神として車松神社があり、赤白の小さな枕が供えられております。その枕を借り受け、後日お礼として新しい枕を一つ添えてお返しする信仰があり霊験あらたかな神社です。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年


由緒

御祭神 日本武尊
延喜年中、日本の有名神社を選定、全国で3132社が定められ、陸奥(東北)に100座が指定されたとき、この信夫の郷(伊達郡は後に信夫より別れる)に五社が定められました。その折、白和瀬神社は陵奥延喜式内壱百座の内、信夫五社上宮と定められた。
勧請は、人皇36代孝徳天皇(504年)の御代、大化元年、上大笹生村烏帽子森嶽項上に鎮祭されました。しかし、地勢が急峻で容易に登ることができないため、参拝者の便を図って、天正年中(1580年代)現在の析戸の地に遷座し奉り、今日に至りました。
由緒正しき当神社は、昭和2年春、村社から一躍県社昇格の報告を受け、当社の由緒からみると、県社以上の資格があるとのことでしたが、維持管理容易でなく、県社に甘んぜざるを得ませんでした。
白和瀬の名は、信達一統志によると.万葉集下総の歌人の家持が家集に、
「早田ト作レリ愚案ズルニ
白淡川ノ水上二鎮座ス神ナレバ白淡瀕ナルベシ
アハノアハヲ約シテ白和瀕ト唱へ來リシナム」
とあり、又、白早稲とは、稲からでたという説もあります。いずれにせよ、1330年余の歴史をもつ古い神社であると共に、延喜式内の信夫五社でも社地社史明確な社として郷土史でも注目されます。
当神社は、五穀豊穣・商売繁盛、特に火難・災難(盗難事故等)除の神として、多くの人々に崇拝されてきました。車松神社(白和瀬神社末社)御祭神、神日本磐余彦尊境内には、安産の守神として、車松神社があり、紅白の小さな枕が供えられております。その枕を借り受け、後日お礼として新しい枕を一つ添えてお返しする信仰があり、霊験あらたかな神社てす。

社頭掲示板




白和瀬神社

 日本武尊は勅命により九州の熊襲を征伐なされてお帰りになり事の次第を委に天皇に奏上あそばされた。天皇は更に引き続いて尊に向って東の方十二ケ国の荒くれの神々や皇威に服せぬ者共を平完せよと仰せになられ御?友耳建彦をお伴に副えてお遣しになった。そして東の国にお進みになり山又河の嶮しいところに立ち籠っている荒くれた神々や、天皇の仰せに屈せぬ者どもを残らず従へられた。それから尊は御船を召して海を渡り上総(字浜淵)に上陸しようとされたがその途中 水海にさしかかった時、そこの海の神が俄に大波を巻き上げて先に進むことも後に退くことも出来ず尊をはじめお伴の人々も進退極まりこれまでと覚悟をきめられた。するとこの時お后の弟橘姫が「これはきっと海の神が怒ってなすわざでございませうから妾が身代わりに海に沈んで海神をなだめようと思います。あなたはどうぞ勅命を立派にお果たしになって、このことを奏上おそばして下さいませ」と仰せになるやさっとばかりに海中に身を投げられた、すると今まで荒れ狂っていた大波がたちまち静まってお船は無事上総の岸にお着きになることが出来たのであるが、尊が上陸して七日を過ぎたとき弟橘姫の御櫛が岸に打ち寄せられた。これを見つけた住民は姫の御心根を非常に憫れみ尊にその御櫛を姫の形見として大切にするよう申し添えてお渡し申し上げたのである。
丁度その頃秋から冬を迎え尊が冬の寒さをお凌ぎになるため仮の館(小屋)をお造りになって春の暖かくなるのを待たれたと云ふ。
尚大笹生地区には現在浜渕雪小屋折戸茶畑等の字名が残っているが、これは尊がお船でこの地にお着きなった所を字浜渕と名付けられ、風雪を凌がれた小屋を字雪小屋、ある日尊が今の拝殿のあたりから望見なされて「あ、住めば都なり」と仰せられたとのことから後に居都(字折戸)と、又当時の住民が毎日尊にお茶を煎じ奉った茶樹のあった所を字茶畑と夫々名付けられたものである。そして尊は春も暖かくなって住民と名残を惜しみながら御出発になり峠路より吾妻山にお上りになり小高き嶺より遥かに東の海を望まれ、しみじみと彼の憐れな弟橘姫の御事を偲ばれて思わず「あづまはや」と御嘆声をおもらしになったとのこと。「あづまはや」とは、あゝ吾が妻よという意味でそれよりそのあたりの国々をあづまと呼ばれてきたものである。
それから後の世に至り烏帽子直垂は高貴なお方の服装で特に烏帽子は頭上に冠するもの故山を烏帽子ケ嶽と名づけて此の地に御縁の深い日本武尊を烏帽子ケ嶽にお祀り申上げたものであって時あたかも大化の御代であった。
吾妻権現これは日本武尊が弟橘姫のお櫛を形見にして大切に懐中に納めて居られたが尊自信が無事故郷に帰れるかどうかの懸念から吾妻山の裏にお櫛を埋めて塚を造り冥福を祈願したものと伝いられている(古事記より)。
又当社西半里ばかりに在り、古は白和瀬明神此山烏帽子ケ森に鎮座すると云えり、今は山の下に宮殿など遣れり。
大化元年今より1325年前日本武尊を祀った。尊が東夷征伐の順路にて永くこの地に滞在せり。
山の麓に鎮座す、日本武尊を祀り3月15日祭礼なり、萬葉集下総の歌に和世と作れり家持の集に早田と作れり。安ずるに白淡川の水上に鎮在す神なれば白淡瀬なるべし、あわのはをつめて白和瀬などと唱え来りしならむ、又云、早式と云う稲あれば其の称名に負せ奉りしにや、信達風土記に延喜式内明神と記せり、東屋嶽神社是社なるがされば信夫五社の一柱の神なり然もあるか、と    (信達一統志にも記されている)
東屋嶽三柱神
東屋嶽神社 日本武尊   大笹生
東屋国神社 御鋤友耳建彦 中野
東屋沼神社 弟橘姫    平野
現在の白和瀬神社は今を去る325年前正保4年住民信仰上の便誼を考えて油井勤家の先祖が自ら神社境内地として一反三畝余の大地を寄進し烏帽子ケ嶽より現在地の字折戸42番地に御遷祀申したものである。
その後社殿の老朽により放置できず慶応3年今より105年前当時の油井瀬兵衛の発願により氏子の協力を得今の社殿を改築して、旧社殿は荒古屋の稲荷神社に寄進したものである。
大正10年当時の永代総代人油井弁次郎、油井恵助が神官と共に神社昇格のことについて努力された結果認められて指定村社に昇格した。ここにおいて拝殿を銅板に葺替え鳥居も銅板でまく等の他社庭の斜面を平らにするため土盛りをして拡げ石垣と石段の造営も行ったものである。続いて油井弁次郎総代が自分の土地に社務所を建てて神社に寄進した。旧社務所はあったが建築年代不明なるも二百年以前のものと思量され老朽して危険のため明治37年頃に取り壊されている。
神社が指定村社に昇格後間もなく更に県社昇格の議が起り氏子と神官共にこれが実現に着々準備を進める中に神社功労者である永代総代人油井恵助は大正12年春この世を去ったため嗣子油井勤が恵助の意志を嗣いで昇格運動に参加尽力したが、県社には古より由緒が明確で基本金五千円以上の積立金を有していることの資格条件があり、これを満たすため氏子よりの寄附により金子を調達して漸く資格を具備して大正13年春県社に昇格した。
しかし神社には御神体も御神刀も存していないため神官の計いで京都より御神体をお迎いして本殿に安置し、傍ら御神刀は有志の寄進によってお供へしたものである。
その後経済の変動が激しく物価は昂騰して神社の維持管理も自ずと容易でなく極めて困難なとき銀行が倒産し、積立の五千円を失い資金難を迎えたため村当局に願って烏帽子ケ森周囲約一町歩と山の南面約五町歩計六町歩の山林を村から下げて貰って神社の基本財産は造られたのである。
例大祭の設定、県社であるため毎年4月11日、4月12日、4月13日の三日間を例大祭と定められた。11日は県より御神撰と幣帛料を神前に供え知事が供進使として参向、村長が随行して祭典を執行される日、12日は中日と村内折戸、安養寺、中組、原、水野、上ノ町、東部の各部落より太鼓台七台が奉納せられ荘厳に社入りが行はれる、一般参詣の日、13日内祭にて氏子が楽しく参拝して年間の無事平穏を祈願する日となっている。
夏越祭、これは氏子が一年間無事息災にて年越し出来るよう祈願するお祭で旧7月18日執行される。
新嘗祭これは秋祭にて11月29日執行される五穀豊穣を祝祷するお祭にして以上が県社の三大祭とされている。
次いで氏子よりの寄附によって祭礼に是非必要な随員の祭服、大鏡銅製の燈籠一対、吊燈籠四個、石の唐獅子一対等が新調され神社の尊厳が高められた。又昭和15年7月には皇紀2600年記念事業として神官本田謙宥氏の揮毫により社標を建立した。
昭和16年12月8日大東亜戦争宣戦布告となるや動員令の都度出征兵の武運長久の祈願祭が行われ終戦迄の間無慮何百回かの祈願祭は祭神日本武尊が戦神様であるだけに如何に出征兵を鼓舞してくれたことか特筆に価するものである。
昭和18年頃から戦争による消耗は有風物質不足を告げ国も施策として物品回収運動に踏み切ったため、神社も亦この運動に呼応して参道の並木全部を供木とし、鳥居の銅板、銅製燈籠一対、吊燈籠四個と全部供出し、運動に全面協力したが結果は昭和20年8月15日敵国に対し無条件降伏という冷厳なる敗戦となった。米国の占領政策により神社は一切地方公共団体との関係を絶たれ県社としての社格は喪失して無資格となり、社標も県社の文字は抹消されて宗教法人法により宗教法人白和瀬神社として今后運営されることになった。
その后昭和21年奉安殿を払下げ社務所北に霊神社として建立し、昭和25年本殿両覆葺替神社石段の造営、社務所石段の造設その他神社環境の整備と神社運営等は着々進められて来たがこれら費用の一切は神社有の立ち木売却又は氏子の寄附金等によって賄はれ現在に至っているものである。
尚、昭和45年に至り神社総代油井健氏により社務所敷地である土地字雪小屋二ノ二宅地六坪八合と字雪小屋二ノ一原野一反一畝二歩の寄進があり神社財産台帳に登載されている。以上のとおりの沿革をもち当神社は戦神としてまた五穀豊穣の神として地方住民の厚い信仰を集めてきたものである。

大笹生史



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