東屋沼神社
あづまやぬまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】東屋沼神社(名神大) 陸奥国 信夫郡鎮座

   【現社名】東屋沼神社
   【住所】福島県福島市飯坂町平野明神脇1
       北緯37度48分19秒、東経140度26分35秒
   【祭神】少名彦名命 大己貴命 素盞嗚命 日本武命
   【例祭】 4月第3日曜日 春季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代経緯不詳
       康和5年(1103)6月10日奉幣
       元和6年(1620)2月22神道許状
       安永10年(1781)東屋治神社と改号
       明治2年東屋沼神社と改称
       明治4年郷社
       明治8年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初吾妻山雷沼(現在の五色沼)付近に鎮座
        後世、大笹生村の五輪山(台山)へ遷座
        その後、現在地へ遷

   【祭祀対象】吾妻の山霊
   【祭祀】江戸時代は「七松大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造トタン葺
       拝殿・幣殿

   【境内社】

「福島県史」によると東屋沼・東屋国両社はもと「雄大にして噴煙昇騰した吾妻の山霊をまつつたもので、東屋沼神社は東屋沼(一名五色沼)の辺にあり、東屋国神社もまた吾妻山中にあつたに相違あるまい」とする。おそらく両社とも吾妻山中にあり、山及び山中の沼を祀つたのであろう。
創建当初は吾妻山の雷沼付近に社殿が鎮座していたが、山麓の大笹生地区の木落山(御林山)に遷座し、その後現在の鎮座地へと再遷座した。


由緒

本社の創建年代は明らかではないが、延喜式名神大社にして一千年以上の古い歴史のある神社で、少名彦名命、大己貴命(大国主命)、素盞鳴命、日本武尊の四柱を祀る。往古吾妻山雷沼あたりに鎮座せしを、山麓の大笹生木落山(一名御林山)に遷して、当時「七松大明神」と稱し、のちに又現在地に遷し奉ったものである。維新前は摺上川、松川の間余目20余郷の総社たりしが、明治4年辛未年郷社に列せられ、後又明治8年乙亥年、村社に列する。古文書の中に信夫国に五つの名高い神社があって、本社は最も重要なお社として「名神大社」の格式がつき、国の行事儀式として祭典が行われたと記されており、この地方を代表する五穀豊穣、災難消除又火伏せの神として祖先傳来からの由緒ある御神徳の高い神社として奉斎されております。参照の書史は、大日本史、延喜式神祇誌料、信夫町村誌、信達一統誌、奥羽勤跡聞考誌、信達古語、信達風土雑記。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




延喜式とは

律令とは、孝徳天皇の御代に中大兄皇子を皇太子として、大化元年(西暦645年)から大化5年につくられた法律で、今の憲法のようなものであった。従ってそれを実際に行なうには施行細則が必要であった。それが弘仁式とか、貞観式として発せられ、それに続いて延喜式が発せられたものである。それで延喜式とは律令の施行細則である。
この延喜式は醍醐天皇の延喜5年(西暦905年で今から1081年前)に左大臣藤原時平らにその編纂を命じられた。ところが、日本全土の神社の調査研究をしているうちに、時日が過ぎて関係者は大方死亡してしまった。それで醍醐天皇は、延長3年(西暦925年)さらに藤原清貫らに命じられて、その編纂を続行せしめられた。延喜5年とり23年ほど続行して、延長5年12月(西暦927年で今から1059年前)時平の弟左大臣藤原忠平らが、ようやく延喜格式を天皇に奉って制定されたのである。延喜式は五十巻から成り、第三巻十の神名式「神名帳」に記載されている神社を延喜式内社という。従って当東屋沼神社は、少くとも一千年以上古い歴史のある神社で国の行事儀式として祭典が行われたものである。
昭和61年4月
延喜式内
名神大社 東屋沼神社

社頭掲示板



陸奥国INDEXへ        TOPページへ


学校名簿