第30代欽明天皇の皇子淳中倉太珠敷命が東国の不穏を静めるために行幸し、信夫湖に住む大熊を退治したものの疲労甚だしく崩御したとの噂があり、それを聞いた母石姫が慕ひ来たが、子が死んだと聞かされ嘆きの余り黒沼に身を捨ててしまつた。 欽明天皇のとき地名にちなんで黒沼大明神として祀った。 |
由緒 第30代欽明天皇の皇子淳中倉太珠敷命が東國の不穏を静めんがため行幸し、信夫湖に住む大熊を退治したものの疲労甚だしく崩御したとの噂を傳へ聞いた母石姫が慕ひ來たが、子が死んだと聞かされ嘆きの余り黒沼に身を捨ててしまつた。供奉の健夜依米主從四人は嘆いて黒沼赤沼を巡見したところ、古淺川の自現明神のお告げによつて大岩を切開き、黒沼赤沼の水を大熊川に抜き干潟となして石姫を埋めた。後、欽明天皇に奏聞に及び地名にちなんで黒沼大明神と宣命を蒙り齋き祭つた。皇子は征伐の後帰京して第三十一代敏達天皇となつたと言ふ。 明治9年11月神官明石重富の『記録書上控』 |