黒沼神社
くろぬまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】黒沼神社 陸奥国 信夫郡鎮座

   【現社名】黒沼神社
   【住所】福島県福島市御山堂殿6
       北緯37度46分3秒、東経140度28分8秒
   【祭神】黒沼大神 石姫皇后
   【例祭】
   【社格】旧県社
   【由緒】崇峻3年(589)6月15日官社
       寛平2年(890)閏9月15日正六位上
       弘安元年(1278)明宮となる
       建武年間(1334−38)北畠顯家当尊信
       慶長年間(1596−1615)松川合戦で社殿焼失
       明治4年7月24日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造トタン葺
       拝殿・幣殿

   【境内社】

欽明天皇と皇后石姫の間に淳中太命と言う皇子があった。
陸奥国に下向した石姫・淳中太命の両宮は、安達郡澁川村黒沼、沼袋村、信夫郡金谷川村金澤、同淺川、水原村を通り、更に平田村山田に逗留の後、信夫山の黒沼付近に住んだが、わずか一年にして崩じた。石姫が陸奥に遷された皇女の後を慕つて信夫山の麓まで來て、皇女の没を歎いて黒沼に入水した(『信夫山』)とも伝える。


黒沼神社

福島市信夫山 延喜式内社 黒沼神社
主祭神 黒沼大神 (谿谷と水を支配する神)
配祀神 石比売皇后 (第29代欽明天皇の皇后)
「延喜式」とは醍醐天皇の延喜5年(1075年前)時の政府首班、左大臣 藤原時平が延喜式(法典)の編纂を命ぜられ 藤原定国、藤原有穂、平 惟範、紀長谷雄、藤原菅根、三善清行、大蔵善行、藤原道明、大中臣安則、三統理平、惟宗善経、等の編纂委員により編纂が始められ、同12年に改めて、時平の弟忠平と橘 清澄とに勅命が下り、13年后の延長3年に重ねて、藤原清貫に特命し、伴 久永、阿刀忠行等を新たに増員して、延長5年12月26日に完成したもので(1053年前)「延喜式」は五十巻から成り、巻九と巻十の神明式「神名帳」に記載されている神社を延喜式内社という。
 黒沼大神は昔福島の地が湖水であった時の水神といわれ第13代 成務天皇の御代(約1750年前)当所に祀られたと伝えられる。  なお欽明天皇(在位、紀元1199年〜1231年、32年間)の皇后である石姫皇后はその第一皇子、八田王即渟倉太命と共に奥州に来られ当地に住まわれたので配祀神として合祀された。(約1400年前)
昭和55年2月16日(旧1月1日)
延喜式内黒沼神社宮司 富田弘國

社頭掲示板



黒沼神社

我が信夫御山三社由緒
信夫御山は、福吹島よ、そこらことらに、黄金が湧く
信夫田からは、無限の福の、そちらこちらに、華が咲く
信夫畑から、無涯徳が、芽生え萌出ず、寿茂
 信夫山、西峯 お羽山には約2000年以前より大山祇神、大国主神、少那彦名神を斎祀す、此お社を、湯殿神社と号す。信夫山の東峯、羽黒峯には、是再約2000年以前、稲倉魂神を斎祀す、此お社を、羽黒神社と号す。何々山と云う山号の無いのをご注目して下さい。是れは我国に佛教渡来以前の神社である事を証明して居ります。中に月山神社鎮座するのは、約1300年前、欽明天皇、第一皇子、八田王、渟倉太命、信夫の里に御下向なされ我福島の里で御崩御なされ、皇子の奉持されし御鏡を、月読命の御霊代として御納めなされ、月山神社と号す、そして皇子の御霊は羽黒神社に合祀する。
 山下の黒沼神社は、……我信夫平野は1800年以前は湖水であった、その節、お羽山の烏ヶ崎より、お湯が湧出して居り、日本武尊エゾ御東征の砌り、伏拝地内より御山羽黒神社、湯殿神社を伏拝まれたと申し、伏拝の地名残ると云傳える。日本武尊、お出でになられたのは、約1800年前である。信夫山の蔭の本内地内に紀元2600年記念の年に、鎮座、1500年祭を執行した、本内八幡神社がある。是れでも、信夫山上の神社が古い事がうかがわれる。此湖が干上った際湖の主を黒沼大神として斎祀したのが黒沼神社と号し、約1750年前の鎮座である。
 欽明天皇、后、石姫皇后は、皇子、渟倉太命、我福島に御下向の後、其のあとを追って皇后もお出でになり、福島で御崩御なされ、黒沼神社に合祀する。羽黒神社と黒沼神社の御紋はそれで、菊、桐の御紋章なのである。
羽黒神社 五穀豊穣の神、一粒万倍商売繁昌の神
湯殿神社 福神、出雲の神、男女縁組の神、農業繁栄、産業振興の神、医薬の神、身体健固の神
月山神社 暗闇を守り、災い災難消除の神、交通安全の神、以上で家内安全となる。
昭和55年2月26日(旧正月14日)
梅津無涯 謹書

社頭掲示板



黒沼神社

平安前期の延喜式神名帳にのせられた神社と伝え、祭神は久良御津波神と石比売命とされている。縁起では、欽明天皇の后石姫命が故あって皇子淳中太銘をともなって奥州に下向され、信夫山で亡くなられたので、太子を羽黒神とし、母后を黒沼大神として奉祀したとしている。また、久良御津波神は水を司る神といわれるから、古くから農業神として敬信されてきたことはまちがいない。拝殿には、福島藩主板倉氏が代々奉納した絵馬(市文化財指定)や福間城下の有力町人たちが奉納した絵馬もあって信仰の深さと広さも示している。なお、本県最初の県社として明治4年7月に指定された由緒ある神社である。

社頭掲示板



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