奈良朝(8世紀)のころ按察使兼鎮守将軍大野朝臣東人、蝦夷平定のため東征のおり、常陸国より守護神として鹿島明神を勧請して当地に安置した |
由緒 鹿島神社縁起によると、「奈良朝(8世紀)のころ按察使兼鎮守将軍大野朝臣東人、蝦夷平定のため東征のおり、常陸国より守護神として鹿島明神を勧請して当地に安置した」とある。このとき祀た鹿島明神の位置は、現在も古鹿島として地名が残っている。永録年間に社殿が焼失したが、慶長年間に再建された。下って享保10年9月7日(1725)、現在の地に遷座された。延喜式内社ともいわれているが定かではない。相殿に医薬神社が祀られている。現在の社殿は明治14年12月に改築され、その後、本殿、拝殿は明治維新百年を記念し、昭和45年10月に改築された。社殿には、有晒川織仁親王御染筆の奉額「鹿島神社」・「医薬神社」(原本は2巻の掛物として保存)が掲げられている。このほか、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二将神木像(江戸初期の作)が安置されている。境内には近世における南画の大家として知られた熊坂適山(寛政8年保原に生まれる)の画碑が建っている。また、相殿の医薬神社は、明け薬師縁起によると、「天長(9世紀初期頃)空海上人巡礼のおり、この地の眼病流行によって苦しむ里人を救わんと、霊石に薬師如来を刻し現地に祀る。里人一宇を建て尊像を安置し奉った。のち兵火のため焼失し、尊像のみが雨露にさらされている期間が長かった。よって裸薬師と言い伝えられた。」とある。明治元年、医薬神社と改称し、鹿島神社内に相殿として合祀された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
鎮守鹿島神社由緒 鹿島神社 例大祭10月19日20日 祭神 武甕槌神 高皇霊神と皇祖天照大神の命を奉じ国土の建設と開国に力をつくし、国家統一の大功をたてられた神で、信仰の根源は、強い心の持ち主、強い身体の持ち主にならせ給えと祈ることにある。 由緒 鹿島神社縁起によると、「奈良朝のころ按察使兼鎮守将軍大野朝臣東人蝦夷平定のため東征のおり、常陸国より守護神 として鹿島明神を勧請し当地に安置す」とある。この鹿島明神の位置は、現在の字古鹿島として地名が残っている所であ る。永録年間に社殿が焼失したが、次の慶長年間に社殿が再建され、降って享保10年、古鹿島の地から現境内に新築遷座された。現在の社殿は、明治14年12月に改築、その後、本殿、幣殿は、明治維新百年を記念し、昭和45年10月に改築されたものである。 社頭掲示板 |