昔篠生(信夫)郷が湖沼であつた時、僅かに水上に出ていた鹿嶋山上に常陸国鹿嶋神宮より蝦夷地経営の爲分祀勧請したと伝える。 境内に要石がある。 当社と鳥谷野の鹿島神社は江戸期から明治にかけて激しい式社論争を行った。 |
由緒 鎮座については不詳であるが、古昔、篠生(信夫)郷が湖沼であった時、僅かに水上に出ていた鹿島山上に常陸国鹿島神宮より蝦夷経営のため分祀勧請したと伝えられている。 桓武天皇延暦元年凶賊を征伐することを祈念し、神験あるために勲五等及び本国の封に戸を授かる。延喜式制定(905年)に当たり、本社もその例に入る。 本社の位置は古代の小倉郷の中央小さな独立丘陵上にあり、旧米沢駅路にそっており、古くより福島の古社として栄えた。 中世には牧野紀伊守の居住する小倉館(鹿島館)といわれた城館があり、別名「小倉鹿島神社」ともいわれている。 本社の本殿は木羽葺神明流造りで、江戸中期以前の建築で当地でも古い木造建築物の1つとされている。境内には霊石の要石があり、古くはこの石の位置に社殿があったと伝えられていて、今ではこの石に触れると安産になると信じられている。 また、かつて境内の前を流れていた濁川に架かる石橋は明治21年に建立したもので「よろづ世にかけて朽ちせじ里の名の おぐらの橋の名さへ橋さへ」と、この地区が神社を中心に橋の名とともにいつまでも語り継がれ発展することを詠んでいる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
鹿島神社 昔、篠生(信夫)が湖沼であった時、わずかに水上に出ていた鹿島山上に蝦夷地経営のため、常陸国鹿島神宮を分祀勧請しました。 式内社・鹿嶋神社の論社の一つでもあります。 中世には、牧野紀伊守の住む小倉館(鹿嶋館)があり小倉鹿島神社とも呼ばれていました。 鎮座等については不明ですが、その昔、篠生(信夫)の郷がまだ湖沼だった時、僅かに水土に出ていた鹿島山丘上に常陸国鹿島神宮より蝦夷地経営のため、分祇勤請したと伝えられています。桓武天皇延暦元年凶賊を征伐する事を祈り、神験あるため勲五等及び本国の封に戸を授かりました。延喜式制定に当たり本社もその例に入ります。 後鳥羽天皇建久7年(1196)に暴風雨のため本殿が大破し再建され、後醍醐天皇の皇子義良親王の霊山入りに際し、当社に参詣し「延喜式鹿嶋神社」の石碑を建立奉納されました。その後、伊達家の崇敬篤く、天正7年(1579)太刀一口を奉献されました。また、光格天皇天明3年(1783)には御筆の額「鹿嶋神社」を賜り、文化4年には拝殿を改築し、文政7年(1824)京都吉田家より御鏡御幣を奉納され、同年現在の本殿を再建しました。その後、明治初年には雨覆を設け、昭和40年屋根替・改修工事を行い、鎮座一千百年を記念し平成13年9月には拝殿・幣殿を改築し、歴史の重みを感じさせる荘厳な社殿となりました。当社の位置は、古代の小倉郷の小さな丘上にあって、駅路に沿っており、中世には伊達家の家巨(十四代稙宗の重巨)の牧野家(後、社家丹治の祖)の住居する小倉館があり、別名「小倉鹿島神社」とも云われています。 公式HP |