往古は現在地水神山上に鎭座していたが、永禄年中(1558−70)に火災により神殿悉く焼失したために、祠官三品氏の宅地のある宮原の地に小祠を建立して移祀した。 弘化3年(1848)11月に至り、あらためて現在の水神山の旧社地に社殿を造営した。 あるいは、もと亘理町逢隈田沢字宮原の阿武隈川近く(常磐線鉄橋に西200メートルの堤防の下)に鎮座していたが、のち(年代不明)現在地の氷上山(三掴山)の丘の上に遷宮されたとも。 当社はその珍しい社名の故もあつて平安朝の都人に知られていた。『かげろふ日記』附録の「道綱母の家の集」の次のような和歌の贈答に窺われる。 はちからの、陸奥の守にてくだるを、ながあめしけるころ、そのくだる日、晴れたりけれぱ、かの國に、かはくといふ神あり。 |
安福河伯神社本殿 亘理町指定文化財 平成10年9月7日 指定 安福河伯神社本殿 この神社は、阿武隈川の川の神(河伯)を祭神として祀る、「延喜式神名帳」(十世紀)にものっている由緒ある神社(延喜式内社)である。この地は、古来阿武隈川下流の治水用水、朝廷の北辺の守りとして重要な場所だったのだろう。そのため、この地にこの神社が祀られたと思われる。社名は、「貞観紀」(862年)には阿福麻神社、「封内風土記」(1769年)には阿武隈明神社、「安永の風土記書上」(1779年)には、阿武隈神社、以前掲げてあった鳥居の扁額には「阿武隈大明神」とあるが、みな同一社である。 古来近郷の人びとに崇敬され、旧藩時代には邑主亘理伊達家によって手厚く保護されていたという。また、明治から昭和20年(太平洋戦争終戦)までは郷社であった。 この神社は、もと亘理町逢隈田沢字宮原の阿武隈川近く(常磐線鉄橋の西約200mの堤防の下)に鎮座していたが、のち(年代不明)現在地の水上山(三掴山)の丘の上に遷宮された。現在の本殿は、流れ造りで間口二間奥行二間、拝殿は四間に三間、幣殿は二間に一間。建築年代は本殿が安政5年(1858年)8月で拝殿・幣殿はそのあとである。本殿は、はじめ亘理伊達氏が寄進する計画であったが種々の事情から実現せず、氏子や崇敬者によって建立された。 本殿は、亘理では建築年月のわかる数少ない江戸時代後期の建物で、彫刻が見事である。 石段の登り口にある鳥居は花崗岩で、様式は明神造りである。 社頭掲示板 |
安福河伯神社 景行天皇41年(西暦111年)8月6日、日本尊命の勧請と伝えられている。文徳天皇仁寿元年(西暦851年)正月正六位に叙せられ、清和天皇の貞観5年(西暦863年)10月29日戊子勲十等正六位上より従五位下を奉授、延喜の制小社に班した。往古の神領は田沢一村を寄せられたが、天正年中兵乱相継ぎ廃絶した。慶長7年に亘理領主伊達成実が社殿を造営し、更に祭粢料として一貫二百六十六文、また神主領八百八十文を寄進、爾来領主累代の崇敬篤く、寛政5年には十二石六斗九升の寄進もあった。安福河伯神社名は「延喜式神名帳」にあるが、「貞観紀」には安福麻水神、「封内封土記」には阿部隈明神社となり、明治12年6月郷社に列せられ、同40年3月幣帛供進社に指定せられた。更に明治41年4月に宮原の水神社、同42年5月に森房早川神社を合祀した。本殿は前記の通り亘理領主の造営したもので、流造で結構壮麗であり殊に彫刻に優れた技術が認められる。社の祭典の神幸はもと、田沢より南の亘理町に至り東折して荒浜港へ御着、汐の行事を行い更に西して本社に還る例であったが、今は地域内のみ渡御することとなり、6月30日の夏越祭の茅輪に火を点じ夕方から深夜にかけてこれを潜り悪疫消除を祈念した神事も廃止するに至った。また、田植使舞報告祭は6月20日前後に早苗を献じ五穀の豊饒を祈る風があり、氏子の農家は裏作をしないという禁忌がある。 宮城県神社庁 |