荒雄岳(984m)山頂の社を奥宮とし、当社は里宮とされている。 国司の参向は、多くは当社で行なわれ、神宮寺も併設されていた。 この地は古来からの聖地であり、境内には縄文時代の祭祀遺跡とされる「荒雄川神社遺跡」がある。 |
由緒 当社は、玉造郡岩出山町に鎮座しており、本殿に大物忌神、建速須佐之男命、瀬織津姫命、大国主神、言代主神、大山祇神、軻遇突智神、倉稲魂神、武甕槌神、経津主神、境内に木花開耶姫命、菅原道真公、天水分神をお祀りしている。 縄文期(中期)の遺跡、岩出山町文化財である。 延喜式神名帳(延喜7年に編集された代表的な神社台帳)に載っている玉造三座の一つで、鬼首の荒雄岳上にある社を、奥の宮と称したのに対して当社は、里の宮と称され、神宮寺も併設されてこの地の信仰の中心となっていた。 また、嘉応2年(1170)に藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に奥州一の宮とし、室町幕府には奥州探題の大崎五郎、一の宮として崇敬し、江戸時代に至っては、岩出山伊達家の氏神となった。 寛保3年(1743)に幕命によって、江合川(荒雄川)沿いの三六所明神を合祀したので、三六社様とも称されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
荒雄川神社 延喜式神名帳(延喜7年に編集した代表的神社台帳)にのっている玉造三座の一つ、鬼首の荒尾岳上の社を奥宮と称したのに対して里宮と称され、神宮寺も併置されて、この地方の信仰の中心となっていた。 祭神は、須佐雄尊と瀬織津尊で、応徳(1086)ころに、源義家が征東の際、戦勝を祈って黄金の剣を奉納したと伝えられている。 また、嘉応2年(1170)に、藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に、奥州一の宮とし、室町時代には、奥州探題大崎義隆が大崎五郡の一の宮として、崇敬し、江戸時代に至っては、岩出山伊達家の氏神となった。 寛保3年(1743)に、幕命によって江合川(荒雄川)沿いの三十六所明神を合祀したので、三十六社様とも称されている。 岩出山町教育委員会 社頭掲示板 |
荒雄川神社 本社は養老4年の創祀と伝えられ、荒雄山上に鎮座し俗に三十六所明神と称した。延喜の制小社に班す。前九年の役に陸奥守鎮守将軍源頼義安倍一族征討の際大谷孝任をして当社に祈願をこめ黄金十枚、黄金造の太刀一振を献じた。当時の神主阿部保則の後胤式部大輔保時十七日の間祈祷したところ官軍大勝利を得たという。又、後三年の役に源義家も戦勝を祈請したといわれる。大崎氏の志田・玉造・栗原・加美・遠田の五郡を領するや、当社を一ノ宮と称し社領三十貫文を寄進崇敬した。この後、伊達政宗岩出山在城の節本社を郡内総鎮守とし、神領を献じ崇敬旧の如し。明治6年5月郷社に列せられ、同44年5月供進社に指定された。これより先、明治41年8月六社を合併した。 宮城県神社庁 |