船形山神社
ふながたやまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】行神社 陸奥国 黒川郡鎮座

   【現社名】船形山神社
   【住所】宮城県黒川郡大和町吉田字升沢108
       北緯38度27分45秒、東経140度40分48秒
   【祭神】保食神 十二神將軍 大黒樣
   【例祭】5月1日 春季例祭
   【社格】
   【由緒】反正天皇の御代創建という
       明治3年船形山神社と称

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「船形権現」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿

   【境内社】

集落から離れた尾根の頂きに鎮座している。
『旧神祠記』にのみ、当社を式内社「行神社」に比定するが、その論拠は不明。
江戸時代には、仙台藩より寄進を受けた。大和町宮床にある勅願寺であった真言宗飯峰山信楽寺を別当寺として、仙台藩内の雨乞祈祷所十ヶ所の一つであった。
御神体として高さ15センチの金銅菩薩立像がある。普段は船形山中の秘密の場所に埋めてあるが、5月1日の例祭の時にのみ掘り出され、薬師堂に遷座、開帳される。


由緒

祭神、保食神。
神事、「梵天ばやい」・「田の神迎えの神事」・「作占」。
当社の草創は不詳なるも第十八代反正天皇の御宇に船形山に奉祀されたと伝えられる(「観蹟聞老志」)。もと勅願寺真言宗飯峰山信楽寺が別当職を務め船形権現と称し仙台藩主伊達政宗公より祭料七貫文の奉納以来歴代藩主の安堵があった。藩内雨乞祈祷所十か所の一つである。
明治3年船形山神社と称し田の神迎えの神事。御正躰を山中より迎え、その発現によって豊凶作占する。又神庭に於いては梵天を奉納、これを争いあい里に帰り、田の水口に祭り豊作を祈年すれば、年の豊作と言われる。近年までは女人禁制の荒祭りであった。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




舩形山神社

ご創祀の年月不詳であるが、奥羽観蹟聞老志に反正天皇の御宇に祀されたと、郷人が伝ていると記され、もと勅願寺真言宗飯峰山信楽寺が別当を司り、舩形山権現、又升澤権現と称した。明治3年神佛分離で船形神社と称したが後舩形山神社と名称を改めた。祝人が山中より神体を奉持、田ノ神迎の神事で祭りが終れは、拝殿に神体を遷祀、登拝者が奉拝その神体の色によって年の豊凶を占う。奉納された大梵天は登拝者の中に投入れられ若者によって梵天ばやいが行れこれを持帰って、田ノ水口に立てると豊作と伝られている。

宮城県神社庁



船形山神社の仏像と多賀城

船形山神社(船形山権現社、升沢権現とも)は大和町の奥深く、船形東麓、升沢の内水面試験場の付近にある。その神体である15センチの金銅仏が研究者によって注目された。古代中国の北魏時代の遺品と共通点が多く、百済の聖明王が仏像と教典を献じて我が国に仏教が伝来した欽明7年(538年)頃の製作と思われる。
我が国現存最古の仏像は、飛鳥仏と呼ばれる百済仏教のもので、北魏から朝鮮の百済に伝えられたものが我が国に入ったものだ。丈六釈迦如来像(605年)、法隆寺金堂釈迦三尊像(623年)などとされている。
しかし、船形山神社の菩薩立像はこれらより更に時代を遡るのではないか、というのである。
5月1日には、奇祭「梵天ばやい」の神事が行われる。一帯の旧修験信仰の名残りとして、田の神を迎える梵天行事をとどめている。升沢14地区が、八十八夜を前に合同して田の神を迎える行事で、年に一度の御開帳に合わせ、神体を祠へ据える日だ。宮司以外誰も知らぬ地中に埋めてある神体を、宮司が土から出して、その湿り具合で1年の天候を占ってみせるという。そして梵天の御幣を奪い合う。奪い合った梵天は自町まで持ち帰ると同地区の稲が豊作になるといわれる。今は参拝者全員に割って配られている。
この最古かも知れぬ仏像が一体どうやって北境の地で秘仏とされたか。それは、菩薩像が多賀城にあったからではないか。
多賀城には百済との関連が何点か見いだされている。日本書紀には、百済滅亡前後に王家を初めとする亡命民が多数現在の滋賀県に多数渡り、琵琶湖の東の地に多賀神社を祀った。陸奥の鎮守府多賀柵の開府にも多賀神社が勧請された。また百済人の子孫良弁(ろうべん)が観音寺を開基したが、観音寺(多賀城廃寺)が官寺として多賀城創建と同一計画の下に造営されたと考えられている。太宰府建設には百済亡命者が中心となったと言われるが、太宰府の観世音寺(観音寺と同義)の伽藍配置と多賀城廃寺の配置も同一で、百済文化と多賀城の関連は改めて着目すべきである。
多賀城から50キロほどの升沢に百済式の菩薩像があることは見逃せない。東北には10例ほどの古代渡来の金銅仏が伝えられるが、いずれも独尊の小像である。しかし船形山神社の菩薩像だけは、背の柄から察すると一光三尊像の左脇侍だったらしい。頭の柄も頭光用だったろう。これを三尊像に復元すると、韓国の国宝である6世紀後半のものに似るが、それより一回り大きく高さ50センチ以上になる。我が国では法隆寺の釈迦如来及脇侍(きょうじ)像が最も古いが(628年)、これも脇侍は13.6センチ。船形山神社の仏像を持てるものは、相当な地位のものだったはずだ。
そして、飛鳥仏(7世紀)より古い6世紀後半の様式であることからすれば、次のような推測ができるのではないか。百済(滅亡は660年)最後の王の義慈王の子で、日本に人質として留まったのが禅広王が。そして、多賀城の二代目の主である陸奥国守百済王(くだらのこにきし)敬福(きょうふく)は禅広王の曾孫だ。義慈王から王家の未来を託されたのではないか。託された仏像の片割れが、今に在る船形山の菩薩像なのではないか。
さらに、これを裏付けるものとして、升沢の古老は、船形山神社の御神体はもと多賀城の殿様が祀っていたものが、宮床の寺に流れてきた、との口碑を伝える。また、「女神が熊谷と瀬戸という男に追われて升沢に逃れ、農夫が隠してやると、女神は菩薩になった、とも。
多賀城側にも伝説がある。南宮(なんご)の色ノ御前社に女神が居た。隣村の山王社の神に恋慕されたが、嫌って逃げ、升沢の船形山で助けられそこの神となった。
菩薩の逃走ルートは古代の多賀城と黒川を結ぶ古道だろう。熊谷や瀬戸は特定の村落に多い。また同工異曲の説話が菩薩の足取りにあたる集落に残る。
敬福は天平21年(749年)に小田郡から日本初の産金の大事業を成し遂げたが、その技術者も百済の渡来人だった。聖武天皇により大特進を得た敬福が次の任地に去るとき、護持仏としていた三尊像を、観音寺(多賀城廃寺)か南宮神社(色ノ御前社)に寄進したと考えられないか

 ODAZUMA Journal   http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200708290000/



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