古くは現在地南方二町余りの宮前田に鎭座していたが、300年前に現在地に遷座したという。 黒川郡の大領は靱(ゆき)大伴連であつたと考へられるので、行神社はこの靱大伴連氏の祖廟であるとされている。 大嘗祭の時には、東西に悠紀殿と主基殿の二殿が特設され祭儀がとり行われる。当社より北の大衡村に鎮座する須岐神社とを関連付けて意義を考える説もある。 『封内風土記』は式内鹿島天足別神社とする。 |
行神社 奈良平安期に、国が奉斎する神社名を記した神名帳に、登録された神社を「式内社」と呼び、陸奥国に百座、黒川郡には四座が祀られているが、行神社はその内の一社である。 行神社の祭神は猿田彦命である。神社名から「行く」の意味とすると一種の道祖神、岐神となり、往還の守り神と考えることができる。「行き」を靭ととると軍事の神として祀り、大衡にある須岐神を鋤神ととらえ、農業の神として蝦夷経営にあったとも考えられる。 また、大嘗祭の時に東に悠紀殿、西に主基殿の二殿が特設されて祭儀がとり行われるが、富谷の「ゆき」大衡の「すき」はみちのくの朝廷多賀城と結びつけると、なんらかの関係が考えられる。 社頭掲示板 |
行神社 奈良、平安期に国が奉斎する神社名を記した神明帳に登録された「延喜式内社」とされ陸奥国に百座、黒川郡には四座が祀られているが、行神社はその内の一社である。行神社の祭神は猿田彦命。神社名から「行く」の意味とする一種の道祖神、岐神となり、往還の守り神とも考えることができる。「行き」を靭とすると軍事の神として祀り、大衡にある須岐神を鋤神ととらえ、農業の神として、蝦夷経営に当ったとも考えられる。また、大嘗祭の時に東に悠紀殿、西に主基殿の二殿が特設されて祭儀がとり行われるが、富谷の「ゆき」大衡の「すき」は、みちのくの朝廷多賀城と結びつけると、なんらかの関係が考えられる。 宮城県神社庁 |