鳴上賀茂明神宮(鶴ケ峰八幡神社境内社)
なるかみがもみょうじんみや 所在地 社名















   【延喜式神名帳】須伎神社 陸奥国 黒川郡鎮座

   【現社名】鳴上賀茂明神宮(鶴ケ峰八幡神社境内社)
   【住所】宮城県黒川郡大和町宮床字赤坂73
       北緯38度25分24秒、東経140度51分24秒
   【祭神】(鶴ケ峰八幡神社)応神天皇 神功皇后 玉依姫
   【例祭】(鶴ケ峰八幡神社)9月1日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

境内社・鳴上賀茂明神宮は、安永3年(1774)七月の『黒川郡宮床村風土記御用書出』によると須伎神社であるという。
鶴ケ峰八幡神社境内社として祀られている。
式内須伎神社は鶴ケ峰八幡神社に合祀されているとの説もある。


鶴ケ峯八幡宮

古来八幡宮があった。長徳元年(995)に宮内少輔が京都の賀茂明神の御幣を申し下して鶴ケ峯に勧請して、宮中大明神として祀った。
 鴇田淡路実清が斯波宮内大輔氏直(黒川氏)の家臣となり、信州より諏訪明神を勧請して、宮中八幡に祀った。
 諏訪明神に神剣の怒撃丸(正和4年1315年備前景光作)を鴇田氏が奉納した。
元和7年(1621)2月、伊達政宗が社参した。
宝永元年(1704)8月、五代藩主の吉村が社参した。
同年10月、社領三十石の地を伊達吉村が寄付した。
享保15年(1730)藩主吉村が八幡宮を造営した。その後たびたび吉村の社参があった。
延享元年(1744)6月、六代藩主の伊達宗村が社参。
鶴峯八幡宮 長 九尺三寸
横 九尺
拝殿 長 一丈二尺六寸
横 九尺四寸五分
長床 長 七間
横 二間半
別当 羽黒派当村修験鶴峯山正善院
 社殿は、明治九年の山火事で焼失した。

社頭掲示板



鶴ヶ峰八幡神社

当社は、寛文3年古縁起等を焼失したので創祀年代を明かにすることが出来ない。或は推古天皇6年と記し、一(市)宮波神、賀茂三社を合祭すという(観聞志、名跡志)又、別当正善院清範はこの賀茂明神社を式内須伎神社であると伝えているという。宝永元年8月25日藩主伊達吉村(獅山公、この人は宮床領主田手氏の出である)社参の節、一ノ宮の社号が、鹽竈大社と紛らはしいというので宮中と改めた。(同上)享保15年八幡宮を新造した際、これを本体としたので賀茂神をはじめ鴇田伊豆国種(宇和多手城主)の建てたという諏訪と、稲荷、愛宕、白山社を末社とした。宝永元年10月獅山公は三貫文を社領に、正徳4年五百文を別当領に寄進した。忠宗・吉村ら藩主並びに領主田手氏の参詣納物、社殿の修営、祭事の興行が絶えず行われた。

宮城県神社庁



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