須伎神社
すきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】須伎神社 陸奥国 黒川郡鎮座

   【現社名】須伎神社
   【住所】宮城県黒川郡大衡村駒場上宮前4
       北緯38度29分3秒、東経140度54分57秒
   【祭神】素盞嗚尊
       『神社覈録』伊弉諾尊 
       『大和町史』鋤の神 

   【例祭】5月3日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】建久2年(1191)地頭亮玉彌太郎重成が現社地に遷座
       延享3年(1746)6月藩主宗村病気平癒の祈願
       宝暦10年(1760)斉藤能登守造営
       明治5年3月郷社
       同43年3月神撰幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】往古は現社地西方400mの宮高森山に鎭座していた
        建久2年(1191)地頭亮玉彌太郎重成が現社地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「赤崎大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造柿葺
       幣殿・拝殿

   【境内社】

往古は現社地西方400mの宮高森山に鎭座していたと伝。建久2年(1191)地頭亮玉彌太郎重成が現社地に遷座。


由緒

創祀年代、鎮座の由来等は詳らかでないが、延喜式神名帳に黒川郡4座の1として記載され、社伝の縁起書によると、往古は「韓鋤神社」とも称し、現在地の西の方「宮高森」にあったが、建久中の頃当地(駒場・大森・菊田)を領有していた「児玉弥太郎重成」が今の地に遷祀し、「赤坂明神」と称え氏神として尊崇した。その子孫「児玉右近」が社地に椚千本を植え、「千本椚」とも言った。延享3年藩主伊達宗村、当社に病気平癒を祈願し、効験があったことから頗る尊崇したことが誌に記されている。また当社の御神体は享保19年、社人能登守源左衛門が、神祇官領吉田兼雄に請い、これを祀ったと伝えている。明治5年3月郷社に列し、同43年3月神饌幣帛料供進社に指定せられたが戦後廃止され、昭和25年7月神社本庁被包括宗教法人として現在に至る。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




須岐神社の由来

当社は延喜式神名帳記載の黒川郡四社の一社で祭神素盞嗚尊を祀る。始め西方の宮高森上に在り建久2年(1109)に地頭児玉弥太郎がここに遷座して、赤崎大明神と稱え椚千本を植え神境とした。里人はこれを千本椚と稱した。中世時代から支配領主たちの崇敬篤く延享3年(1746)藩主伊達宗村公は疾病平癒祈願のため茂庭求馬社参したといわれ終始一貫して地方の名社として存続し明治6年郷社となる。
 社殿は江戸時代中期宝暦10年(1760)に神主斎藤能登守の時に新築造営された。
 本殿は流れ造りこけら葺きで小屋組柱露出吹放の覆屋(雨屋)がかけられている。
 拝殿は入母屋造萱葺、長床は寄棟造萱葺で大正13年に再建された。

社頭掲示板



須伎神社

式内須岐神社
祭神 素盞明尊
神社神道は肇国以来の国是として普く国民に浸透し神社崇敬の心は国体の本義として代々継承されてきた。陸前国多賀城総社の宮に奥州百座の一として須岐神社が祀られ周辺鎮護の■として座している。
延喜5年(905)平安前期 延喜式神名帳に黒川郡四社の一として須岐神社が登載 初め宮高森に勧請 韓鋤神社と言うも赤崎大明神を経て今は須岐神社となる。
建久2年(1192)地頭児玉弥太郎現在の地に遷宮赤崎大明神と称し社地に椚千本を植栽 人呼んで千本椚という。
正徳3年(1713)4月12日 境内に青面金剛童子奉庚申供養碑建立
享保3年(1718)6月15日与七郎疫病祈願として釣鐘を献納雲泉寺8世住職鐘銘を録す。太平洋戦争軍需品として徴用その後行方不詳。
享保19年(1734)7月社人源左衛門赤崎明神の神体を須岐神社に祀る。中世より支配首領たちの崇敬篤く当社最古の絵馬が寛保元年(1741)に奉納。
延享3年(1746)6代藩主宗村公疾病平癒祈願のため大■■馬を社参させた。
宝暦10年(1760)神主・・・・
安永4年(1775)石の鳥居奉納 神主■■能登守
林次代願主山崎屋・・・・石工信州伊那郡■■
村岡衛門外二 世話人平四郎外二の銘あり
寛政9年(1797)■石薫休が石灯籠奉納 文化10年(1813)申子碑建立 元治元年(1864)氏子一同で石灯籠狛犬像各一対奉納 泉田丈右エ門垂れ桜を寄進■ 明治4年(1871)子安■■■■安置
明治5年(1872)郷社に列せられる
大正13年(1924)風倒木の被害により長■再建寄棟造萱葺 左右大神を祀る
平成2年(1991)拝殿・幣殿・■■を神明造りに御大典記念として新■■ 伊崎神社境内に遷座
同4年(1992)長床改築 顕彰碑建立
以上由来を記して後世に伝えんとす

社頭石碑



須岐神社

鎮座地は、旧奥州街道に沿う要地で、その昔源頼朝、奥州諸大名、明治天皇、東北御巡幸の際通られたところである。創祀年代、鎮座、由来等は詳かでない。延喜式神名帳(平安時代)に登載されている。宮高森より(現在地より西方向)より当地を領有せる。児玉弥太郎重成が(建久2年)、今の地に遷した。延亨3年(1747年)藩主、伊達宗村、当社に病気平癒を祈願し効験があった。明治5年3月郷社に列せらる。明治43年3月神饌幣帛料供進社に指定さる。本殿宝暦10年(1760年)10月建立の実物(流造柿葺)が覆屋にて今も保存されてある。拝殿幣殿は老朽の為、平成3年天皇即位御大典を祝し、新築してある。鐘楼は、亨保3年奉納されたものであるが大東亜戦争に際し供出され、それに変り平成13年新しく氏子崇敬者により奉納建立された。

宮城県神社庁



陸奥国INDEXへ        TOPページへ


学校情報