境内入口には、陸奥国式内百座の名前と現在の鎮座地が鳥居両脇に列記されている。 塩釜神社宮司押木取介氏は「総社の前身が多賀社であつたことを意味するのではなからうか。すなはち多賀城創建時現奏社宮の地には伊邪那岐・伊邪那美の二神が勧請されて多賀社が建立され、國府在庁の官人より朝夕の尊崇を受けられ國府の津に鎭座し陸奥国の鎭めである塩釜神社に対する國司の奏上や奏聞。奏請が當社を通して行なはれた祭儀形式がそのやうな傳承として残つたのではないかと考へられる」として総社の宮を多賀神社としている。 |
多賀城碑 多賀城去京一千五百里 去蝦夷国界一百二十里 去常陸国界四百十二里 去下野国界二百七十四里 去靺鞨国界三千里 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将 軍従四位上勲四等大野朝臣東人所置 也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山 節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守 将軍藤原恵美朝臣朝獲修造也 天平宝字六年十二月一日 社頭掲示板 |
総社宮ご神樹 総社宮ご神樹のこと 杉 南北朝時代より樹令六百年 白木蓮 江戸時代より樹令二百年 老杉に白木蓮の花化粧……昔より誰からともなく愛され、詠まれ、語り継がれてきたこの杉の巨木と白木蓮を対称して、人々は長寿で仲のよい「うるわしい夫婦」に見立て、家族円満、幸せの神樹とて慈しみ尊敬されて参りました。 東北では古くから木蓮の白い花を農作業のめやすとして「種蒔桜」とも呼んでいました。 又の説に陸奥国府の長官が赴任の際に京より移し植えられたとも伝えられてます。 ご参拝においでの方々が、この両木に長寿と美しさにあやかるよう、そっと手を触れてお帰りになられます、あなた様もどうぞこの両神樹の永い歴史と年月に耐えて来たたゆまざる強さ、そして花満開期の豊かな美しさにあなた様の限りなき幸福を祈願して下さい。 (宮司) 社頭掲示板 |
陸奥総社宮 醍醐天皇の延喜年中勅して全国より由緒正しき社三千一百三十二座を神名帳に載せらる、内百八十八座を大社とし、他を小社とす。之を延喜式内社と称し国司に命じて幣帛を供進せしめしが後に参進の便を図り之も各国府の地に合祀して総社という。当社は即ち陸奥国一百座を合祀する陸奥総社なり、奥州留守職伊沢氏三千刈田の斎田を寄せ、後村上天皇の未だ陸奥の大守として多賀の国府に在せし時、神護祈念を当社に懸け給う。伊達氏亦政宗公以来歴世祈願の事あれば藩主自ら社参するを例とせり。 当社は此の如く多賀国府と不可分の史跡にして東奥鎮護の大社なり。 三原良吉誌す (宮司) 社頭掲示板 |
陸奥総社宮について 本社の鎮座年月は明らかではありませんが、往古陸奥国の府内にして陸奥国府に属する総社で、かつて歴代の国司の奉斎したところとなります。国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集めて詣でることが広まりました。当社は陸奥国府多賀城に赴任した国司が、多賀城東門の近くに合祀勧請したのが始まりとされています。 鎌倉時代には、奥州留守職伊澤氏が国司に代り祭祀料として三干刈の地を寄進したと言われています。また、伊達政宗公も当社の再興に意を注ぎ、別当寺市川山神奏院(真言 塩憲法法蓮寺末寺)を置いて社務を行いました。歴代藩主の尊崇篤く、親拝代参などがあったとされ、世間一般からも篤い信仰を受けました。 明治4年10月に村社列格。明治41年には貴船神社外七社を合併し、大正12年8月に供進社に指定されました。 公式HP |
陸奥総社宮 本社の鎮座年月は明でないが、此の地は往古陸奥国の府内(東門外)にして陸奥国府に属する総社である。(総社を奏社としたのは後世の誤りで近年現社号に改めた)従って歴代の国司の奉斎するところであった。鎌倉時代となっては奥州留守職伊澤氏之れに代り祭祀料として三千刈の地を寄進したといわれる。このことは天正頃廃絶した。伊達政宗のこの地に封ぜられるや当社の再興に意を注ぎ、別当寺市川山神奏院(真言 塩竈法蓮寺末寺)を置き社務のことを司らしめた。歴代の藩主亦尊崇篤く、しばしば親拝代参等のことがあった。明治4年10月村社列格。大正12年8月供進社に指定された。これより先、明治41年貴船神社外7社を合併している。(宮城県神社名鑑より転載) 宮城県神社庁 |