古昔多賀城主が江州の多賀神社を勧請して造つたとしている。 以前は多賀城廃寺跡東塔基壇上に鎭座していたが、昭和40年(1965年)に多賀城廃寺が国の特別史跡になつたので、神殿その他の施設を隣接の地に境内地を求め移築して神霊を安鎭した。 多賀城廃寺跡に隣接して鎮座する。 中古、鹽竈神社に合祀されていたとも伝。 |
多賀城廃寺跡 陸奥国府多賀城跡の東南方約1kmの多賀城市高崎の丘陵上に位置するこの寺跡は、多賀城の創建ととほぼ同じく奈良時代の前半に、付属の官寺として建立されたものである。 多賀城廃寺跡は、大正11(1922)年10月12日に多賀城跡とともに史跡に指定され保存されてきだが、昭和36・37年に学問的価値と保護の基礎資料を得るため発掘調査が行われている。調査の結果、塔・金堂・講堂・中門・大房・小子房。鐘楼・経楼・東倉・西倉などの建物が判明しており、創建当時から正に七堂伽藍をそなえた本格的な古代寺院であつたと思われる。 同廃寺跡は、昭和41年に特別史跡に指定され、調査に基づいて環境整備が行なわれ、現在史跡公園として市民の憩いの場となつている。 社頭掲示板 |
多賀神社 御鎮座の年月明ならざるも、此の地は古の陸奥国多賀郷の中心地にして所謂多賀城(陸奥国府)鎮護寺の境内に在り当時任に赴ける国司若しくは開拓移住民の常に尊崇措かざる江州多賀神社を遷祀したと伝えられる。延喜の制国幣小社に列せられ、桓武天皇延暦15年(796、奈良)10月己卯従五以下を授け奉り、又、堀河天皇の康和5年(1103、平安)6月、御トに多賀神の神事を穢した祟あるを以て社司に中祓を科せられたことが朝野群載に見えているなど早く朝野の崇敬をうけた社である。明治5年5月村社各加列。なお、本社は中古鹽竈神社に合祀(今、左宮右宮と称す。)し、後、故址に社殿を造営したとも伝えられる。この説によって御祭神をば武経二神に定めたことであろう。しかし、近江の多賀神を勧請したのだとすれば、あなかしこ諾・再二神と改め奉るべきである。昭和40年境内一円国の特別史跡に指定され、数年にわたり発掘調査が進められ、又、史跡公園となったので、多賀城廃寺跡東塔基壇上に鎮座した神殿その他の施設を隣接の地に境内地をもとめ移築して神霊を安鎮した。明治41年10月、大字留が谷字中道の神明社、同44年5月、大字東田中字志引の千引神社、大字留が谷字影屋敷の天神社を合祀した。社殿の老朽が環境を悪劣にしている為め、総代の働き掛けて、町内氏子より寄付を募り、神明造りの社殿が平成13年4月15日完成。 宮城県神社庁 |
多賀神社 この地は、かつて陸奥国多賀郷の中心地で陸奥国府鎮護寺の境内にあり、当時任務に赴いた国司、開拓移民が崇敬していた、江川多賀神社(現在滋賀県多賀大社)を遷祀したとされる。 奈良時代の風土記に当時の神事が記載されており、平安時代には桓武天皇より796年に従五位下の位をうけるなど、朝廷や民衆より崇敬を受けていた古社であると言える。 しかし、朝廷が陸奥征服を果たし、軍事拠点てあった多賀城の繁栄も途絶えるのに伴い、当社の所在も不明になるなど一時衰退した。 明治に入り村社を決める際、所在さえ定かでなかった為いろいろ論議されたが、明冶5年9月に「延喜式内社」として村社格に加列される。 昭和40年当社境内地を含めた一円が、国の特別史跡に指定され、史跡公園の施工に伴い、多賀城廃寺跡東塔基壇上に鎮座した神殿、その他の施設を移転し現在の地に神霊を安鎮した。 平成13年、氏子崇敬者協力のもと、社殿を改築し現在に至る。 多賀神社総代 社頭掲示板 |