鼻節神社
はなぶしじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】鼻節神社(名神大) 陸奥国 宮城郡鎮座
          (旧地)鼻節神社【旧地】

   【現社名】鼻節神社
   【住所】宮城県宮城郡七ヶ浜町花渕浜誰道1
       北緯38度17分46秒、東経141度5分5秒
   【祭神】猿田彦神 (配祀)大山祇神 保食神 菅原道真
       『神名帳考証』木花開耶姫と埴安神
       『日本風土記』多力雄神
       『新撰陸奥風土記』多力雄神、猿田彦神、和多都美神

   【例祭】9月28日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】孝安天皇の御宇はうが崎に鎭座
       舒明天皇2年(630)圭田奉納・神事
       宝亀元年(770)現在の垂水山に移祀
       承和11年(845)8月従五位下「続日本後紀」
       康和5年(1104)6月過穢あり中祓
       明治5年5月村社
       明治10年3月国幣中社志波彦神社塩釜神杜の摂社
       同40年3月供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初はうが崎に鎭座
        宝亀元年(770)現在の垂水山に移祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿

   【境内社】大根海神社

社の御祭神は塩釜の大神と御同神で、御舟に乗つて鼻節の浜に上陸したという。
光仁天皇の宝亀元年(770年)、ほうが崎は風が強く、度々社殿が破損したので現在の鎮座地である垂水山に移ったとされる。
平安文学の「枕草子」の中に、生田・龍田等の名社と共に「はなふちの社」と数えられている。
多賀城を国府としていた頃に使われていた国府厨印(こくふくりやのいん)が発見され、保存されている。


鼻節神社

鼻節神社は第6代孝安天皇の御代(前392〜前291)に、岐神(ふなどかみ)として猿田彦命を花淵浜吼坊ヶ崎に勧請して、神社を創建したと伝えられている。都より神官が下向して祓清めたという記録があり往時の鼻節神社が霊験あらたかで朝廷の尊信を受け、民間の信仰も厚かったと思われる。
御祭神 猿田彦命
例祭日 旧9月28日 本殿一、五坪 幣殿三坪 拝殿一〇坪

社頭掲示板



鼻節神社

本社創紀の年代は古書によると第34代舒明天皇2年(西暦630)といわれ第60代醍醐天皇の延喜5年(905)に全国の神社を調査せしめた延喜式神明帳には当時陸奥国にある壹百座を大まかに分け大社十五社小社八十五社とし本社は名神大社に列せられている。後に鎌倉時代陸奥国府(多賀城)の主厨であったといわれる花淵浜の舘主花淵氏累代の崇敬篤く社殿の造営、祭事が相つぎ社敷場や地名に残る祭田、三月田四月田五月田等は神田、社領の遺名でありその盛大さを偲ばせます。

社頭掲示板



鼻節神社

本社の勧請年代明でないが、社伝に拠れば、この神(鹽竈大神と同神といわれる)は、神代にあって御舟にて鼻節浜に上陸し給うたという。第6代孝安天皇の御宇ほうが崎(今、元御殿と称し里人之を常に礼拝している)に鎮座あり、第34代舒明天皇2年始めて圭田43束を奉り神事を行った。第49代光仁天皇の宝亀元年(770)現在の地(垂水山、誰道にも作る)に移社した。第54代仁明天皇承和11年(844)8月、霊験あるに依り旡位から従五位以下に陞叙せられた。(続日本後記)第73代堀河天皇康和5年(1103)6月社司等神事に過穢あるにより祟給うたので使者を遣わし中祓を科し祓清せしむべしとの神祇官の奏言あり、(朝野群截)延喜の制には名神大社に班した。(延喜式)平安文学の白眉枕草子の中に、生田、龍田等の名社と共にはなふちの社と数えられ、朝野の崇敬啻ならざるものがあった。鎌倉の代陸奥国府の主厨にして花渕城主(留守伊澤氏家臣)だった土豪花渕氏累代の尊崇あり社殿の造営、祭事の興行の事相踵いだ。本社の近くまつり田、元つくり、正月田、二月田、三月田等の地名があるのは旧神田社領の遺名であることは言うまでもない。明治5年5月村社に列せられ、同40年3月供進社に指定された。本社は旧来鹽竃大社の末社と称してきたが、明治10年3月国幣中社(志波彦神社、鹽竃神社)の攝社に定められた。同42年6月字山神の山神社、字三月田稲荷神社、代ケ崎浜字八ケ森の天神社などを合祀した。境内社の大根神社の本殿は当浜当方20粁の海中にあり、退潮の時石敷岩檣等窺うことが出来る。本社の社側に二石祠を建て遥拝所殿としている。始、ほうが岬に在ったが、宝亀元年此の地に移した。創祀年月不詳。石祠は明和5年改造立。同八幡社は創立年月は明でないが花渕城主の崇敬社と伝えられる。

宮城県神社庁



国府厨印(こくふくりやのいん)

明治元年(1868年)境内において発見された大きさ4cm四方、厚さ1cmで頭部に丸い”つまみ”が付いた銅印。社殿修復中に偶然発見されたもので、この地に陸奥国府の多賀城の厨があり、海産物の調達に際して使用されていた可能性がある[15]。 明治13年(1880年)の鹽竈神社宮司遠藤信道による国府厨印に関する考証がある[16]。それによると国司の品外の官である主厨の用いた物ではないかとし、主厨は伊勢、安房、陸奥、四国、九州などの海産物を例貢とする国々に置かれた品外正八位相当の官職で、任地にあって例貢の御贄および諸具を掌っていたが、弘仁14年(823年)の論争により廃止され、承和7年(840年)以降は大宰府に限り配置が許されたので[17]、この厨印は承和7年以前に当神社を崇敬した花淵氏の先代が陸奥国の主厨に任ぜられて厨倉を浜辺に立てて例貢を奉献、その後、縁故あって当神社に伝わったのではないかと推察している。また遠藤は同「考証」において、国府厨印は鼻節神社の屋根替えの際に梁の上に結び付けられた状態で発見され、発見時には他に2・3個の古印があったが、この厨印を除いて紛失したと報告している。
明治天皇の第2次東北巡幸の際、宮城県知事の内命で叡覧に供したこともある鼻節神社の社宝であるが、現在は七ヶ浜町歴史資料館が管理している。

wikipedia



東・西大根神社

東・西大根神社は、花淵崎の東沖7kmの海底にある南北2.5km、東西2.5kmの大根岩岩礁を境内とする神社で、猿田彦命・大海津見神・住吉神を祭神とする。
『宮城県管内神社式内調』によれば、現在、境内社として存在する大根神社左右宮の石祠は沖合い海底にある神社の遥拝所であるとし、大根岩岩礁には2町を隔てて「西ノ宮」と「東ノ宮」の2社があるとしている。また、春頃の干潮時には海底に社殿玉垣等が彷彿と見え、これこそが真の鼻節神社であると述べている。
鼻節神社の当初の境内がこの大根神社にあったとする説により、海底にある同社は鼻節神社「奥の院」とも呼ばれている。その説によれば、貞観11年5月26日に発生した貞観地震により、津波と地盤沈下によって境内が水没したため御殿山の現・花淵灯台に隣接してある石祠の地に遷宮し、その後、現在地に遷宮したとされる。

wikipedia



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