この多賀神社は宮城郡の多賀神社に先立ち辺境鎮護の意味をこめて、この地に祀られたと思われる。 |
多賀神社 多賀神社由来(村社)延喜式内社 祭神 伊邪那岐命(万人の祖神 延命・安産の神) 第12代景行天皇40年(皇紀771年・西暦111年)に日本武尊東夷追討の折、この地に勧請された。次いで第21代雄略天皇2年(皇紀1117年・西暦457年)に圭田五十八束を賜り御祭式を行われたと伝えられる。 その後、この地方の守護神として領主様や武将の崇敬が厚く祭祀された。第70代後冷泉天皇の御代(凡よそ900年前)鎮守府将軍源義家征東の際に名取川を渡って本社に参拝し、武運長久を祈り自筆の物を奉られた。享保(270年前)の頃に仮宮を建ててあったが大破し、徳川時代に伊達政宗(第17代)が仙台に居城を構えられてより、世々藩主の尊崇も厚く、第22代藩主重村公(凡よそ250年前)の御寄進により、安永乙未年(西暦1775年)に社殿造営の御普請が行われた。又、角田城主石川宗光公より神號「多賀神社伊弉諾尊」の献上もあり、奥方様や代参の侍女の参詣で賑いました。 明治5年4月に村社に列し、同42年11月に大野田に鎮まり坐す春日神社(祭神天児屋命)と寶龍社(祭神高おかみ命)を合祀した。 俚謡(世間のはやりうた) 伊勢に参らばお多賀に参れ お伊勢お多賀の子じゃ孫じゃ 社頭掲示板 |
多賀神社 大鷹宮とも言い、延喜式内当郡二座の一多加神社であると説く。(特選神名牒)。社伝によれば景行天皇40年日本武尊東征の砌りの創祀にして、雄略天皇2年圭田58束を奉り神礼祭式を行うたというが確証はない。伊達政宗仙台に居城を構えてから代々の藩主の尊崇篤く、重村は寛延年間社殿修復の事あり、又角田城主石川宗光は「多賀神社伊弉諾尊」と書いて献じ仙台藩の国学者安田光則は由緒記を石に刻み境内に建碑した。明治5年4月村社に列し、同42年大野田の春日神社及び宝龍神社を合祀。大正8年8月幣帛供進社に指定された。(社蔵記録)。 宮城県神社庁 |