往古は本社の北西にある大刈田山藥師嶺(現在の青麻山、標高800m)に鎭座していたが、延暦20年(801)本社西南400mの若宮のあつた西ノ宮の地に遷座し(『封内風土記』は大同年間(806-10)のことと記す)、更に永正年間(1504-21)現在地に移祀したという(一説に大永年中(1521-28)とも伝える)。 |
苅田嶺神社 蔵王町指定文化財 刈田嶺神社々殿(三棟) 一、本殿 桁行三間梁間二間、三間社流造り銅板葺 二、拝殿 桁行六間梁間三間半、向拝二間、入母屋造り銅板葺 三、随身門 桁行三間半梁間二間半、八脚門、入母屋造り銅板葺 四、沿革 當社は延喜式内社で刈田郡総鎮守として、又伊達家の重臣白石城主片倉氏(一万八千石)総守護神として古くから崇敬を受けた名社で、白鳥明神とも称された。往古は大刈田山(青麻山)の頂に鎮座したが、延暦20年(801)西山の若宮に相殿となり、永正年中(1510頃)現地に遷座された。本殿は享保3年(1718)片倉家の手で、拝殿と随身門は、文政10年(1827)宮の豪商森家の手で建築奉納された。向拝蟇股の脚線、虹梁木鼻の彫刻、同袖部の若葉文、頭貫の絵模様等に力強い美しさがあり、藩政中期の建築様式をも残し、学術上極めて貴重である。 社頭掲示板 |
白鳥古碑群 重要文化財(町指定) 白鳥古碑群 この地方には古くから白鳥を神のお使いとして尊ぶ習慣がありその崇拝の証として白鳥の碑が建てられたと伝えられている。 (左から) 寛文13年(1673年)銘碑 元禄12年(1699年)銘碑 文政11年(1828年)銘碑 元文元年(1736年)銘碑 元文4年(1739年)銘碑 この古碑群は、”白鳥塋域”として保存管理されてきた 寛文13年銘碑は町内最古の古碑である 昭和53年11月20日蔵王町重要文化財に指定されている 社頭掲示板 |
苅田嶺神社 人皇第12代景行天皇の御宇、倭建命東夷征伐の砌陣を敷き給ふ地を尊崇し、日本武尊を祭りて刈田嶺神社と称す。人皇第14代仲哀天皇元年神田寄進のことあり、更に人皇第24代推古天皇7年(598)刈田郡司に命じて社殿を修覆せらる。延暦20年(801)坂上田村麻呂東夷征伐の折西宮(若宮)の地に遷座せしめ白鳥明神と同殿に祭る。本社を白鳥明神と称する所以である。源頼義、安倍貞任討伐に際し本社に戦勝を祈る。康平6年(1063)頼義刈田白鳥社を造営す。また奥州藤原氏本社を尊崇し、治承元年(1177)藤原秀衡社殿造営のことあり。中世衰微せるに至るも、永正年中(1504-21)佐藤將監兼連参詣者の便を考へ現在地に社殿を造営し遷座せしむ。天正18年(1590)兵火により社殿鳥有に帰す。爾後、伊達氏本社を崇敬せること厚く火災の都度社殿再興のことあり。享保3年(1718)領主片倉小十郎村休社殿を造営す。現在の社殿これなり。 社伝 |
刈田嶺神社 当社は往古倭建尊東征の折、在陣された地を尊崇して、日本武尊を祭り、別号を白鳥大明神と称え奉る。紀元852年第14代仲哀天皇元年冬11月、白鳥社を創設したといわれる。第50代桓武天皇延暦20年田村麿将軍が中興し、延喜式内名神大に列し、古来、皇室よりの御信仰厚く、藩主伊達家、領主片倉家累代の祈願神社である。当初、大刈田山(青麻山)頂上に鎮座していたが、延暦20年西の宮の若宮に合祀されその後、永正年中(西暦1504〜1521年)に現在地に遷宮された。その後、数度の兵火に罹るも、享保3年、願主片倉小十郎、村休(領主)、白鳥社一宇を造営奉り、現在の社殿これである。明治5年6月10日、郷社に列せられ、明治40年3月1日神饌幣帛、供進指定神社となり、更に御大典の昭和3年11月9日、県社に列せられた。 宮城県神社庁 |
白鳥伝説 往古、日本武尊がこの地に遠征に訪れた。遠征のあいだ、尊はこの地の長者の館に逗留したが、側回りの世話をした長者の娘とねんごろになり、一人の男児を授かった。やがて尊は妻子を残して都に帰還していった。尊と娘との間にもうけられた男児は幼くして非凡だった。里人は、長じれば必ずこの地を征服するほどになるだろうと恐れ、謀って男児を川に投げ捨てた。 ところが男児は白鳥に姿を変えて西方へと飛び去った。 その後、里では災いが起こるようになった。 里人は神罰が下ったのだと恐れ、白鳥が飛び去った西方の山麓に祠を建てて許しを乞うた。その後、また、この里には平和が訪れたという。 この地域には、長者の娘が暮らした「内方」、男児を投げ捨てた「児捨川」、白鳥となった男児を祀る祠を建てた「西宮」など、白鳥伝説にまつわる地名が数多く残されている。 平成20年5月24日 蔵王町教育委員会 社頭掲示板 |